「念声是一」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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ねんしょうぜいつ/念声是一
『無量寿経』第十八願には「乃至十念」とあり、それを釈した善導の『観念法門』『往生礼讃』には「下十声」とあることから、経の「念」と釈の「声」が「是、一なり」、すなわち同じであることを示す法然の言葉。換言すると「乃至十念」の「念」が「声」に出して称える称名念仏であることを示す言葉ともいえる。なお、それに加えて、なぜ「念」が「声」といえるかといった理由まで含む場合もある。そもそも法然は、称名念仏一行を専らに修してゆくべきであるとする「専修念仏」の教えを説いたが、なぜ念仏のみかということの最大の根拠は、往生行を説く第十八願に「乃至十念」(=「少なくとも一〇回の念仏」)以外の行が説かれていないことであった。これをもって、阿弥陀仏は念仏のみを「選択」されたので、我々もその阿弥陀仏の御心に順じて、念仏のみを修すべきであるとしたのである。ただし、第十八願においては単に「一〇回の念仏」とあるだけで、その一〇回の念仏が観想念仏なのか称名念仏なのかは説かれていない。そこでこの第十八願の「念仏」が声に出して称える「称名念仏」であること、さらにはその根拠を示すことは、教学上、必要不可欠であった。「念声是一」が重要視される由縁である。
この「念声是一」は具体的には『無量寿経釈』(昭法全七三~四)と『選択集』三(聖典三・一二二/昭法全三二一)で説かれ、両者はほぼ同文といえる。「問うて曰く、『経』に十念と云い『釈』に十声と云う。念声の義如何。答えて曰く、念声はこれ一なり。何を以てか知ることを得たる。『観経』の下品下生に云わく、〈声をして絶えざらしめ、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するが故に念念の中において八十億劫の生死の罪を除く〉と。今この文に依るに、声はこれ念なり、念はすなわちこれ声なること、その意明らけし。…故に知んぬ、念はすなわちこれ唱なり」(『選択集』)。すなわち、「念」=「声」(もしくは「唱」)を明言すると同時に、その理由として、『観経』下々品に説かれる「十念」が「南無阿弥陀仏と称すること」であるのは経文から明白なので、第十八願の「十念」も「一〇回の称名念仏」といえると説く。また、引用では略したが、『大集経』月蔵分(実際には「日蔵分」)の一文に対する懐感『群疑論』の「大念とは大声に仏を称するなり」(浄全六・一〇六下)等の註釈も、「念」=「声」の証拠として挙げられる。
このような「念声是一」論に対して、明恵は『摧邪輪荘厳記』(浄全八・七九一下~三上)の中で、これを厳しく批判する。まず、そもそも「念」とは心の働き(心所)に分類されるのに対し、「声」は物質(色)に分類されるので、これを同じと見なすこと自体、仏教の存在論に反するという。さらに、法然が挙げた『群疑論』の文も、実際は『観経』下々品の、臨終に苦に逼られて念想できない者が称名によって至心を得ることを示すことにより、声を出せば「念仏定」という三昧の境地が得られることを明かす文脈で用いられたものなので、その意図は「念仏」=「称名」を示すことにあるのではなく、むしろ称名によって仏を念じれば三昧が得やすいことを説くのがその趣旨であり、法然は曲解しているとする。この批判に対して、例えば良忠は『決疑鈔』(浄全七・二四三上~下)において、「誦経」を「念経」という場合があることや、基『阿弥陀経通賛疏』(正蔵三七・三四一下)における心・口と念・不念の四句分別などを出して、「念」が声を意味する場合もあることを例示する。ただし、十念の「念」が「声」であることは確かであるが、「念」がそのまま「声」となるのではなく、「念」は「等起の意念(声を生ぜしめる心)」、「声」は「所発の語声(心によって発された所の語)」と位置づけ、能所・色心が別であることは認める。一方、道光『新扶選択報恩集』(浄全八・五七二下~三上)では、「念」=「声」のさらなる証拠を集めると同時に、『摧邪輪』における「日蔵分」の引文の明恵による解釈に対して再批判を行っている。聖冏は『直牒』(浄全七・五三九上~四〇上)において、懐感の引文がやはり称名を説くものと見てよいことを論証しようとする。
なお、「念声是一」は門流によって受け取り方に違いがある。親鸞は『唯信鈔文意』において、聖覚『唯信鈔』の叙述に従って第十八願の十念が称名念仏であることを明言しつつ、最後には「念と声とはひとつ心なり。念を離れたる声なし、声を離れたる念なしと知るべし」(真聖全二・六三七)と述べる。ここにはむしろ「念」と「声」との一体化が意図されていると見なせる。これと同様の傾向は西山派西谷義の行観にも見られる。行観は『選択集秘鈔』(浄全八・三七二上~下)において、「南無阿弥陀仏の行=阿弥陀仏の仏体」と心得たなら、衆生が阿弥陀仏を称えようが礼しようが念じようが、その対象は願行具足した南無阿弥陀仏の行であるので、念であろうと声(称)であろうと同じことになるのを「念声是一」というと定義する。やはりここにも「念」を「声」と読み替えるという発想はないといえる。
【参考】石井教道『選択集全講』(平楽寺書店、一九九五)、永井隆正「法然上人における念と声について」(『仏教文化研究』二九、一九八四)
【参照項目】➡念仏
【執筆者:安達俊英】