願成就文
提供: 新纂浄土宗大辞典
がんじょうじゅもん/願成就文
阿弥陀仏の四十八願が成就したことを示す経文のこと。本願成就文ともいう。法然は『無量寿経釈』において、法蔵菩薩の四十八願は既に成就したのかどうかと問い、「法蔵の誓願は一一に成就したまえり。みなもて信受す、敢えて狐疑すること莫れ。何となれば極楽世界の中に既に三悪趣無し。当に知るべし。これ即ち第一の無三悪趣之願を成就するなり。何を以てか知ることを得たる。即ち無三悪趣の願成就の文に、亦地獄餓鬼畜生諸難之趣無し、と云える是れなり」(昭法全七三)と自答し、また、第二十一「三十二相願」の例をあげ、「是の如く初め無三悪趣の願より、終り得三法忍の願に至るまで、一一の誓願皆以て成就したまえり、第十八念仏往生の願、あに孤り以て成就したまわざらんや。然れば則ち念仏の人皆以て往生すべし。何を以て知ることを得たる。即ち念仏往生の願成就の文に、諸有る衆生其の名号を聞いて信心歓喜し、乃至一念至心に回向して彼の国に生ぜんと願ぜば、即ち往生することを得て不退転に住す、と云える是れなり」(同)と述べている。『逆修説法』一七日には「上巻の初めに説くところの四十願等は彼の仏の因位の発願なり。同巻の奥及び下巻の初めに説く所の浄土の荘厳並びに衆生往生の因果は彼の仏の果位の願成就なり。一一の本誓一々の願成就、経文に明らかなり。具に釈するに遑あらず。その中に衆生往生の因果を説くは、則ち念仏往生の願成就の諸有衆生聞其名号の文、及び三輩の文是なり」(昭法全二三六~七)と述べ、四十八願の一々に相当する願成就文のあることを指摘している。また願成就についての言及は、『念仏大意』(聖典四・三五〇/昭法全四一四)、『登山状』(聖典四・五〇七/昭法全四二九)等にもみられる。ただし現存する『無量寿経』には四十八願すべてに対応する成就文は確認できない。聖光は『西宗要』で「法然御房はいみじき人なり。願成就とは法然御房こそ仰せられしか、異人は云わず」(浄全一〇・二一七下)といい、願成就文への言及は法然が初出であると指摘している。良源、源信、珍海等の現存する著書にはみられない。
【参考】金子寛哉「『願成就文』考」(印仏研究四四—一、一九九五)
【執筆者:金子寛哉】