普寂
提供: 新纂浄土宗大辞典
ふじゃく/普寂
宝永四年(一七〇七)八月一五日─天明元年(一七八一)一〇月一四日。字は徳門、後に道光。華厳学・性相学で高名な浄土律僧。桑名の一向宗源流寺秀寛の長男に生まれ、二〇歳前から京都・大坂で修学する。病をきっかけに一向宗に疑問を抱き、二八歳で生寺を出た。戒律運動の拠点のひとつであった尾張の真言宗興正寺に身を寄せ、関通の世話になったのをきっかけに浄土律僧となる。天台安楽律や曹洞宗にも赴き、京都・尾張・江戸・近江・加賀・南都などの諸国を遍歴修行した。四一歳で、京都の浄土律院長時院で具足戒を自誓受戒し、二世住職となる。五七歳で江戸目黒に新設された浄土律院長泉院に住職として入り、増上寺などで講義を行いながら、精力的に著作活動を行った。七五歳で念仏を称えつつ亡くなった。普寂は法然よりも道宣を仰ぐ律僧であり、富永仲基とならんで、仏教思想近代化の端緒を拓いた思想家である。インドと隋唐以前の仏教を正法として、釈尊復古を目指す三学均修を提唱する。その実践行を支える華厳学においては、智儼・法蔵に依って、澄観・宗密を否定する。浄土教理解においては「念仏は、声に随う三昧にて、妙に雑念散慮を鎮め、三業精一ならしむる秘術なり」(『願生浄土義』報恩出版、一九一一、三六頁)と、口称念仏は声に伴う瞑想であるとした。近世当時の排仏論であった須弥山説批判や大乗非仏説に対して、教理と実践にもとづく独自の護法論を述べ、その大乗仏説論は、明治時代における村上専精の思想的基盤となった。没後には、浄土宗をはじめとする各宗から異端として否定される一方で、近代仏教学において高く評価された。主要な著書に『顕揚正法復古集』二巻、『願生浄土義』二巻、『天文弁惑』、『華厳五教章衍秘鈔』五巻、『華厳経探玄記発揮抄』九巻、『阿毘達磨俱舎論要解』一一巻、『成唯識論略疏』六巻、『摂大乗論略疏』五巻、『天台三大部復真鈔』三〇巻、『勝鬘獅子吼経顕宗章』三巻、『菩薩三聚戒弁要』、『菩薩戒経義疏弁要』三巻などがある。
【参考】西村玲『近世仏教思想の独創—僧侶普寂の思想と実践—』(トランスビュー、二〇〇八)
【参照項目】➡興律派
【執筆者:西村玲】