五悪段
提供: 新纂浄土宗大辞典
ごあくだん/五悪段
『無量寿経』下の、娑婆世界の苦しみのさまを示して厭離穢土の想いを懐かせるための一段(聖典一・二六七〜七八/浄全一・二七〜三二)。特に自らの悪業の報いとしての苦果を受けるすがたを説き、五種類の悪業を示すことから五悪段と呼ばれる。〈無量寿経〉諸本の内、『大阿弥陀経』『平等覚経』『無量寿経』の三本のみに存在する。これらの諸本では五悪段に先立って貪欲、瞋恚、愚痴の三毒とそれによる悪業の果を説く三毒段が置かれる。三毒段と五悪段には、「無義無礼」「不仁不順」「天道自然」「神明記識」などの儒教的、道教的な語が用いられることなどから、この部分がインドに起源を持つものではなく、中国で付加されたものであるとの説が主張され有力であるが、他方、インドに起源を求める研究者もいる。この三本を対照すると、極めて類似しており、ほぼ一語一句に至るまで一致する部分もある。また、五悪段の直前に当たる三毒段末尾には「疑惑し中悔して、自ら過咎を為すことを得ることなかれ。彼の辺地の、七宝の宮殿に生ずれば、五百歳の中に諸もろの厄を受く」(聖典一・二六七/浄全一・二七)と疑惑を戒める文がある。疑惑者の辺地往生の説は『無量寿経』では五悪段の後に置かれているので、この文が五悪段の前に置かれるのは文脈上整合しない。一方、『大阿弥陀経』『平等覚経』では、疑惑往生の説は三毒段の前、三輩段中の中輩、下輩に述べられていて、この文の位置は整合する。これらの理由から、『無量寿経』の五悪段については、先行する『大阿弥陀経』『平等覚経』に基づいて中国で挿入されたと考えられ、この点については研究者間に異説はない。
内容はまず、総説として悪をなさないことを勧め、釈尊自身がこの世間で作仏して五悪・五痛・五焼の中にいるが、そのことは最も劇苦であるという。そして、衆生に五悪を捨てさせ、五痛を去らしめ、五焼を離れさせ、その意を降伏教化して、五善を持たせて現世では福徳を得、生死を離れて極楽に往生し、長寿を得て涅槃への道を得させるのだという。続いて第一悪から第五悪の五悪を説く。五悪それぞれの記述は、ほぼ同じ構成である。すなわち、悪業の内容を述べ(悪)、現世における苦果(痛)を示し、死後の苦果(焼)を述べる。そしてその間に、業報が必然であること、徹底して自己責任であることを強調して悪業の報いを逃れることができないことをいう。一方、そのような悪業がはびこる世界にあって身を端して善をなし、悪をなさなければ、生死を離れ(度脱)、現世では福徳を得、来世は極楽に往生し(度世)、長寿を得て(上天)、涅槃への道を得るとする。
五悪それぞれの内容は、第一悪は殺生の悪で、殺生のみならず、互いに傷付け合うこと、弱肉強食の悪を述べる。第二悪は偸盗の悪で、盗みだけではなく、物惜しみ、騙し合うことも悪であると述べる。第三悪は邪婬の悪で、邪婬から生じる殺戮強奪までも説く。第四悪は妄語の悪で、妄語のみならず、悪口、両舌、綺語といった口業の過を説く。第五悪は飲酒の悪で、飲酒によって引き起こされる様々な悪業までも述べる。このように五悪を配することは、浄影寺慧遠『無量寿経義疏』下(浄全五・五〇下)によるものであり、浄土宗では道光『無量寿経鈔』を初めとして伝統的にこの解釈に従っている。五悪の配当については異説があり、義寂は身口意の三業による悪を明かすものとし、その内容を十悪に配当する。すなわち第一、第二、第三悪を身業の三(殺生・偸盗・邪婬)に、第四悪を口業の四(妄語・両舌・悪口・綺語)に、第五悪を意業の三(貪欲・瞋恚・邪見)とする。法位は、七支の摂とし、第一〜第三悪を身業の三、第四悪を口業の四にあて、第五悪は飲酒にあてる(以上、義寂・法位の説は共に道光『無量寿経鈔』七所引。浄全一四・二〇七下)。
【参考】香川孝雄『無量寿経の諸本対照研究』(永田文昌堂、一九八四)、同『浄土教の成立史的研究』(山喜房仏書林、一九九三)、藤田宏達『浄土三部経の研究』(岩波書店、二〇〇七)
【参照項目】➡辺地往生
【執筆者:齊藤舜健】