覚鑁
提供: 新纂浄土宗大辞典
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かくばん/覚鑁
嘉保二年(一〇九五)六月一七日—康治二年(一一四三)一二月一二日。号は正覚房、興教大師。平安末期の真言宗の僧で、いわゆる新義真言宗における真言宗中興の祖。肥前国藤津庄(佐賀県鹿島市)の豪族に生まれ、幼くして仏道を志した。一三歳で仁和寺の寛助の室に入り一六歳で出家得道し覚鑁と改名。得道の前後の計四年、二回にわたって南都に留学、俱舎・唯識・三論・華厳等の教学を習得した。その後、二年間にわたり、密教における十八道法・金剛界法・胎蔵界法・護摩法の四種からなる四度加行を経て二〇歳で高野山に登り、真言教学と事相(法儀)を修習。事相においては二〇歳代で虚空蔵菩薩を本尊とする記憶力増進のための修法、求聞持法を九度修したとされ、また自身は寛助に伝わる広沢流を本流としつつも諸流派を相承し、ついには大伝法院流という一流の祖となった。教学においては衰微した真言教学復興の機運が高まるなか、鳥羽上皇の院宣により高野山に伝法教院を建立して伝法大会を再興。長承三年(一一三四)、院宣により高野山伝法教院の座主となり、さらにはまた院宣により対立する同金剛峯寺の座主にも就いたが、両者の溝は深まり、翌年座主を辞し高野山の自坊密厳院に退いた。保延五年(一一三九)金剛峯寺側の衆徒が密厳院に乱入するに及び高野山を離れ根来山に移住。これをもって真言宗はいわゆる新義と古義に分裂した。その後、著述や師弟の育成につとめたが、康治二年、四九歳で示寂した。観法の実践者としてすぐれ「内観の聖者」とも称せられた。真言教学の復興とともに当時信仰の広がりを見せていた浄土教との融合を図り、主著『五輪九字明秘密釈』において「十方浄土は皆是れ一仏の化土、一切如来は悉く是れ大日如来なり。毘廬、弥陀、同体異名。極楽、密厳、名異にして一処なり。妙観察智、神力加持をもって、大日の上に弥陀の相を現ず」(正蔵七九・一一上)と真言密教の立場から弥陀と極楽を評し、『阿弥陀秘釈』では「己身の他に仏身を説き、穢土の他に浄刹を示すが如きに至っては、深著の凡愚に勧めて、極悪の衆生を利せんが為めなり」(正蔵七九・四八上)と浄土教の仏身仏土観を批判。加えてまた『五輪九字明秘密釈』では「正像末の異を論ずることなく、之を修する時是れ即ち正法なり。悉地時を簡ばず、信修是れ時なり」(正蔵七九・二〇中)と述べ末法思想を否定した。こうした点に浄土教に対する覚鑁の姿勢が読み取れよう。著書は他に『一期大要秘密集』『真言宗浄菩提心私記』など多数。
【参考】勝又俊教『興教大師の思想と生涯』(山喜房仏書林、一九九二)、櫛田良洪『覚鑁の研究』(吉川弘文館、一九七五)
【執筆者:袖山榮輝】