伝宗伝戒道場
提供: 新纂浄土宗大辞典
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でんしゅうでんかいどうじょう/伝宗伝戒道場
宗脈と戒脈を授与する道場。浄土宗教師となるべき者に対して、宗義の極致を相伝し、列祖相承の宗脈を授与し、円頓戒を伝授して戒脈を授与するために行う道場(「伝法規程」宗規第七号)。加行、加行道場ともいう。「伝法規程」には伝宗伝戒は浄土門主の指定する総本山又は大本山において行う(宗規第七号)と規定されており、現行では知恩院と増上寺で行われている。
[現行]
加行は前行七日、別行一四日と区分され、勤行と教誡と伝法伝戒からなる。前行・別行は、正伝法・正伝戒に対する加行をいう。伝戒は、正授戒という道場で十二門の次第によって円頓戒を授与し、成満のときに戒脈の伝巻を授ける。伝宗は、要偈道場と密室道場と宗脈の伝法道場があり、感誉流の伝目に依っている。要偈道場では儀礼を主とした作法が行われる。密室道場では、九箇条からなる五重自証門相承が授与される。この五重の伝目は浅学相承であり、結縁五重の五箇条・附伝四箇条と同一ではない。宗脈という道場では、五箇条からなる宗脈化他門相承と添口伝三箇条が授与される。これは学匠相承に相当し、成満のときに宗脈の伝巻(蓮社号)が授与される。また加行中の増上寺道場では「日課誓約」や懺悔会が行われ、知恩院道場では成満後に御身拭式が行われている。
[歴史]
法然から聖光に一師一弟子の面授によって口授書伝がなされ、良忠以下代々に瀉瓶相承されること連綿として今日に至っている。聖冏は五重伝書(三巻七書)の制定と『五重指南目録』や『顕浄土伝戒論』を撰述し、宗脈と戒脈の両脈を相承すべきことを規定した。そして、加行期間を一一四日間とし、初めの七日を前行として六時礼讃・誦経・念仏を修し、次の七日を正行として三巻七書の講伝・五十箇条の口伝を受け、次の百日を別行として三経一論・五部九巻・『往生論註』『安楽集』『往生要集』『選択集』『西宗要』『東宗要』等の講述を受け、第百日成満日に正授戒・知残し等の五箇口伝と璽書を伝えられた。聖冏は聖聡に璽書を付属し、聖聡は増上寺を開山して学侶を養成した。増上寺三世聖観は加行日程を改変し、百日(別行)を前行として、三経一論・五部九巻等の講述を平日の学習とし、初七日を前加行として礼拝・誦経・念仏を修し、後七日を正行として三巻七書の講伝・五十箇条の口伝を伝え、後七日成満の日に前四重の別口伝(云残し等の五箇条)と第五重六箇条を伝えた。その後、道誉貞把と感誉存貞の道感二師は箇条伝法の制定をして、浅学相承と碩学(学匠)相承とに分け、五十五箇条の伝目を簡易化した。近世になって関東の檀林寺院において学侶の養成と伝法が行われた。ただし、幕府によって檀林寺院だけに限定されるまでは、各地の有力寺院がそれぞれ独自の僧侶養成と伝法を行っていた。『浄土宗諸法度』(元和元年〔一六一五〕)には、円戒伝授は碩学衆とし、浅学衆に授与すべきではないとし(第三条)、浄土の修学が一五年に至らない者は両脈伝授を認めないようにし(第五条)、これによって伝法制度が確立した。寛文一一年(一六七一)、檀林会議の『諸檀林住持連署十七カ条掟書』によって、五重は修学五年、血脈は一〇年とした。寛政三年(一七九一)には、五重伝法三箇年、宗脈伝法七箇年と短縮された。
近代を迎え、明治初頭の動乱期を経て、明治七年(一八七四)九月、増上寺は檀林伝法を京都四箇本山に割譲することとなり、翌八年に増上寺も大本山となる。同九年に定められた『浄土宗鎮西派規則』によって、伝法は五本山および各檀林で行うこととなった。この五本山は知恩院・増上寺・金戒光明寺・知恩寺・清浄華院をいう。その際に第四条の法脈伝承の事を改訂した。旧法では、五重は法臘五年已上、宗脈は七年、布薩は満二〇年以上に至ってこれを伝えると規定していた。この旧法を改訂し、五重宗脈は三度法臘を経る者とし、布薩相承は両脈既に伝受して、初課卒業以上に限る者とし、五重宗脈を三年とし、布薩も同時に授与した。明治二〇年七月、福田行誡は『伝法復古』を著し、学匠相承は一四日の加行と定め、初七日に十二門戒儀の講伝、一四日目は五重伝書の講伝とした。また「璽書は古伝なり廃すべからず、布薩は之を廃すべし、固より無根の妄式」とし、また伝書初重の『往生記』を廃し、『選択集』にすべしと記した。同二一年八月に宗務所は浄土宗管長日野霊瑞と共に署名して『伝語』を出版した。これは伝宗伝戒規定の制定に相当する。これに対して光阿『伝語匡謬』(明治二一年)、佐伯領巌『浄土宗伝語正謬』(明治二二年)、勤息義城『伝語金鍮論』(明治二三年)の反論があった。また杜多栄伝は『伝語』に対する十箇条の疑問点を提示し、『伝語』の廃止の旨を建議した。明治二三年五月、日野霊瑞は『伝語』を撤回した。結局、福田が意図した抜本的な伝法改革は実現されなかった。同二三年の「伝宗伝戒規程」では、伝宗伝戒は二週間以上の別行を修し、宗戒一期に伝授し、宗戒の譜脈および璽書を授受するものとしている。同三二年の「伝宗伝戒規程」に、総本山大本山および檀林を伝宗伝戒の道場とした。その受者は別行以前に随所において一百日の前行を修すことを規定した。大正二年(一九一三)、伝法条例は規則改正によって、布薩の相伝を廃止して、ここで伝宗伝戒加行と璽書伝授加行とを分離別開した。前行の期間は一一月八日より一二月一一日とし、別行は二週間とした。伝宗伝戒の式は総・大本山と特別の慣例がある檀林に限られた。昭和三年(一九二八)秋からは加行期間を三週間に短縮し、四年には従来年一回であったのを年二回行うことに改め、同一〇年再び期間を四週間に改訂した。昭和二一年一〇月に金戒光明寺、二二年には知恩院が浄土宗から分派独立し、金戒光明寺は黒谷浄土宗を設立し、知恩院は本派浄土宗を創建した。浄土宗が本派と分裂したことによって、加行道場は知恩院と増上寺以外でも開かれた。分裂の中で、同二七年の増上寺・知恩寺での道場は前行七日・別行一四日の三週間となった。同三七年四月七日に「新」浄土宗は合併の登記を完了し、加行の日程も前行七日、別行一四日と定められた。
【資料】『浄土宗宗制』
【参考】神谷大周『伝法沿革依憑詮考』(一九一三)、『知恩院史』(一九三七)、恵谷隆戒「中世浄土宗伝法史について」「近世浄土宗伝法史について」(『浄土教の新研究』山喜房仏書林、一九七六)、『浄土宗宗議会 百年の歩み』(浄土宗宗議会、二〇〇一)、『平成新修福田行誡上人全集』一(USS出版、二〇〇九)
【執筆者:西城宗隆】