比叡山
提供: 新纂浄土宗大辞典
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ひえいざん/比叡山
滋賀県大津市と京都市にまたがる山。日枝山、日吉山とも書き叡山、比嶺、台岳、叡峰とも呼ぶ。最澄が桓武天皇の意向を受け京都を守護する寺として開いた延暦寺の所在地である。奈良の三輪の大物主神を移した東の大比叡ともとの大山咋神の小比叡(四明岳)の二峰から成り、神仏習合の山岳信仰の山である。最澄は延暦寺を開創するに当たって大物主神を大宮、大山咋神を二宮として比叡(日吉)の守護神として祠った。のち山王(縦横の一心三観・一念三千)権現一実神道の本尊とされる。延暦寺は一乗止観院の東塔から始まり、釈迦堂を中心とする西塔、円仁が開いた横川(北塔)の三塔一六谷から成っている。また延暦寺は桓武天皇が遷都に当たって平安京の王城を守護する寺として王城から北東の方角に当たる寺として創建された。その後の比叡山は最澄の開いた天台宗の歴史とともに展開する。最澄は入唐後、円密禅戒の四宗兼学の道場として一二年間の山修山学による人材の養成を定め、桓武天皇の都を守護する鎮護国家の修法を行った。円仁は横川を開き、入唐して最澄の将来した密教を充実し、また五台山念仏を伝えた。相応は山岳修行の回峰行を発案し山岳修行を位置づけた。安然により密教が強調されたが、良源は顕教を重視し、また藤原家の援助により堂塔伽藍を整備し発展に寄与した。良源の弟子に源信・覚運が出て、とくに浄土教が発展する。平安末から鎌倉期にかけて法然が叡山に学んで浄土宗を開創したのをはじめ、栄西・道元・日蓮・親鸞等の各宗の祖師を輩出し、日本仏教の母山としての重要性を発揮することとなる。以後、織田信長の焼き打ち、豊臣秀吉や徳川家康等による復興、徳川家光による東照権現の神殿の造立など比叡山の歴史は延暦寺の歴史とともに推移している。山上は霊場として栄え、山の下の東坂本(大津)・西坂本(京都)には延暦寺を支える多くの里坊がある。東坂本には付近の寺の貴重な資料を集めた叡山文庫がある。また京都や大津からケーブルやバスで登ることもでき、山頂は観光地として開かれている。
【執筆者:福𠩤隆善】