「墓」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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はか/墓
遺体や遺骨などを葬る場所、またそこに建てられる石碑や石塔などのこと。「墓地、埋葬等に関する法律」(昭和二三年五月三一日、号外法律第四八号)第二条によると、墓とは遺体や遺骨を埋葬した場所に建てられる宗教施設、すなわち「墳墓」のことで、「死体を埋葬し、又は焼骨を埋蔵する施設」をいい、都道府県知事の許可を受けた区域である「墓地」に設けられるものと規定されている。「墓」の用例は古く、墓の尊卑の区別の規定をした『日本書紀』二五、大化二年(六四六)三月二二日の条には、庶民(オオミタカラ)の墓は大地を掘って棺を土で覆うのみと記されている。しかし、実際には一般庶民の墓はなく、七世紀頃の民衆層は死体を道傍などに遺棄していた。文献の上では葬式のことを「波不流」(『秦山集』)、「はふり」(『伊勢物語』上)、「波不里」(『古事記伝』)と記載しているように、「葬る」を「ハフル」「ハウムル」と読むのは放棄を意味し、かつては風葬、すなわち死体遺棄の葬法であったことを物語っている。藤原忠平の次男・師輔の日記『九暦』によると、摂政(在位九三〇—九四一)、関白(在位九四一—九四九)を勤めた藤原忠平ですら、義理の祖父・良房の墓や高祖父・内磨の墓は、父・基経の墓の近くにあるらしいが確かなことは知らない、と述べていることなどからしても、墓前での祭祀はあまり重視されていなかったことが知られる。墓は遺体を埋葬する所であり、盛り土を冢・塚・壟・墳、墓の囲いの内を塋といい、熟語となって冢墓(塚)、墳墓という。多くの文献にみられる墓墳・墳壟・墳墓・冢墓・塚は、いずれも土を盛ったという同一の表現で、『倭名類聚抄』には墳墓を「ツカ」と訓じ、同じ土盛りを意味する墳と壟とを結びつけて「墳壟並塚名也」とする。『類聚名物考』凶事四には「思フニ墳墓ノ二字、ソノ意ハ異レドモ、スベテ波加ト訓ニタガヒナシ。字ヲイハバ屍ヲ埋ミタル所ヲ墓トイヒテ、ソノ上ニ土ヲアツメテ土ヲ築ヲ墳トイフト見ヘタリ」とあるように、遺体を埋めるところを墓といい、高く築いたものを墳といった。なかでも皇室の墳墓は山陵といい、『倭名類聚抄』に「美佐々岐」としている。このほか墓所という語も古くから用いられている。また、墓の民俗的な呼称はハカ、ボチなどが一般的であるが、ムショ、サンマイ(三昧)などの古い呼称で呼ばれる地方も多い。
仏教の伝来によって、火葬が導入され、その影響によって、故人の浄土における成仏を願って追善供養のために墓が建立されるようになる。奈良時代、墓上に仏塔や層塔を建てることが行われ、平安時代に入ると多宝塔・板塔婆が、鎌倉時代からは五輪塔・宝篋印塔・板碑が建立されていく。室町中期以降、墓塔に仏の種子・仏像・名号・題目などの供養仏が浮彫り像として刻まれ、仏塔・仏龕の性格を併せ持つようになる。江戸時代中期には福神信仰の影響を受けて、今日にみられる福・禄・寿(天・地・人、仏・法・僧ともいう)の三層の石塔墓が生まれる。火葬の受容は平安期から進んだものの、主流は長いあいだ土葬であった。しかし、明治一七年(一八八四)に公布された「墓地及び埋葬取締規則」によって新墓地の開発が禁じられ、同三〇年の「伝染病予防法」の施行で火葬が急速に普及し始めると、「先祖代々之墓」が生まれ、棹(竿)石の横に個々の戒名を記していく家墓へと変わっていく。墓制としては埋め墓と詣り墓といった両墓制、本山納骨による無墓制、奄美・沖縄諸島の洗骨といった習俗がみられる。火葬墓が出現すると、これまで個々に葬ってきた個人墓から集合墓に変わっていき、先述の「先祖代々之墓」ないし「○〇家之墓」の形態の墓は大正期半ばから昭和初期にかけて一般化されていくことになる。
墓の構成は大都市近郊の墓園に典型的にみられるものとして、狭い寺院墓地では墓石と納骨室(カロート)からなり、隣接の墓との間でもめごとが起きないように境界石と外柵で仕切られるのが普通である。
墓石の形式は大きく分けて和型、洋型、その他の型になる。和型は角碑型ともいい、三層の石塔墓となっている。二段の台石の上に棹石をのせる形式で、それぞれに福・禄・寿ないし天・地・人を象徴させている。また、下台石の下にさらに敷石(芝石)をおいた四層式も少なくない。さらに細かく見ると、棹石の頭頂部の切り込みの形によって四つの型式がみられ、棹石に額縁の形に細工を施したり、装飾や変形を施したものなどがある。なかでも、一段の台石の上に、細長い棹石をのせた角柱型は、神道の墓に多いので神道型とも文人型とも言われている。第二次大戦終了までの軍人墓はその多くがこの型で建てられている。三層の石塔墓は現在も主流をなしているが、これは江戸中期以降に造られた形式である。当初は個人ごとに建立されていたが、後に、一つの墓に家族など複数人が埋葬されるようになって継承され、「先祖代々之墓」の出現へと繫がる。家ごとに先祖を埋葬するこの墓の形式は、江戸中期以降のものであるが、近代以降には質的変化がもたらされてくることを見過ごしてはならない。すなわち仏塔と墓塔からなる五輪塔の影響の下に、三層の石塔墓においても、棹石の頭部に仏像のレリーフや仏の種子が描かれて仏・菩薩が勧請され(仏塔)、その下に葬儀において仏弟子となった故人の戒名・法名が誌される(墓塔)形式が保たれたが、「先祖代々之墓」が出現すると、それまで棹石の頭部に刻まれていた仏像のレリーフや仏の種子が持つ象徴的な意味が忘れられて、家紋に変わっていくプロセスを辿ることになる。さらに、戦後の社会の価値観や家族のあり方の変化などが、それまでの墓の形態にも変化をもたらした。長い間伝統墓として君臨してきたこの三層墓に対して、芝生墓地が昭和四六年(一九七一)に開設された都営八王子霊園で全面的に採用されてから、全国に広まっていく。
この他さまざまな形態の墓が出現するとともに、墓に対する意識も変わり始めるきざしは一九八〇年代後半に起こっている。墓や慰霊の形態の多様化をもたらした直接的な要因は第一に、高齢化社会から「化」がとれて、文字通り高齢社会が到来したこと、第二には、家族形態の変化があげられる。これらは非婚化・晩婚化によって少子化に拍車がかかったことを一因とする。ちなみに「二〇〇六年人口動態統計(概数)」は、一人の女性が一生の間に産む子供の数、合計特殊出生率が過去最少の一・二六人になったことを明らかにしている。以上の二つの要因は、これまで日本人の宗教信仰を支えてきた祖先崇拝の枠を切り崩し、メモリアリズムへの移行を促したと言える。祖先崇拝は自らを遠い先祖からの系譜の中に位置づける思想である。ところが、イエ意識が後退し、コミュニティが崩壊した今日、年老いて亡くなった肉親との絆は主に情緒関係に基づくものとなり、その自然な流れとして、故人の生きざまを刻み、供養するといったメモリアリズムの墓となっていく経過を辿る。その墓の多様化の道は、女性の自立意識の高まりや、「人生の幕引は自らの手で」と願う「死の自己決定権」の目覚めによって、さらに個別化・細分化していく一方で、他者との共生を計る集団化との二方向に揺れ動き始めたといえよう。記念碑的墓・造形美術的墓は個別化の表れである。集団化の墓としては、長男長女の結婚による両家の墓、会社墓、友人同士の墓、合葬墓などを数えることができる。沖縄には一族墓としての亀甲墓が知られるが、これは中国の影響の下に作られたものである。このなかで、合葬墓は集合墓、無縁塚とも言われてきたが、最近、永代供養墓という名で呼ばれるようになってきた。これは、少子化、非婚化、高齢者離婚などによって一人暮らしの人が増加し、このままでは無縁になるという不安の高まりを解消するために生まれたと言える。その先例は昭和六〇年(一九八五)に比叡山延暦寺大霊園が、延暦寺が存続する限り永遠に供養するとのうたい文句で久遠墓と名づけて募ったものである。この場合は板碑型の個人墓であるが、その集合版が永代供養墓で、墓地管理者が墓地の存続する限り代々供養するという形態である。
最近では、科学技術の進歩でクローン造りが可能になったこともあり、新しい構想の墓も出現している。焼骨は故人を偲ぶ縁となり得ても、いのちの復活には繫がらないが、将来、医療技術が進歩してクローン人間が自由に造られるようになれば、その時に臨んでDNAを保存さえしておけば、再びこの世に蘇ることができるとする。平成九年(一九九七)四月に東京の巣鴨平和霊園に出現した「御髪塚」は、DNAを残すため髪を無菌の保存瓶に入れ、将来再びこの世にクローン人間として再生することを願って塚に納めるのだという。死から目をそらした、永世への強い願いが、アメリカでは一九六九年にアメリカ・クライオニックス(遺体冷凍保存)協会となって結実している。不治の病で亡くなった遺体、あるいは頭部や脳を液体窒素の入った金属カプセルに収納して保存し、将来、医療技術の進歩で新しい治療法が開発されたときに解凍して蘇生させるという試みのもとに発足した経緯がある。先述の御髪塚は、このアメリカ・クライオニックス協会の試みと発想を同じくするものである。この他散骨・宇宙葬・月面葬・樹木葬などの葬法、さらにはインターネットに墓を設けるサイバーストーン(電脳墓)も出現している。画面に現れた墓に向かって花を供え、墓石に水をそそぎ、読経も聞くことができる。いつでも、どこにいてもアクセスさえすれば墓参りが可能というが、そのゲーム感覚は否めない。まさに現代は墓の形態もその意味付けも多様化時代に入ったと言うことができるであろう。
【参考】藤井正雄編著『墓地・墓石大事典』(雄山閣、一九八一)、同『お墓のすべてがわかる本』(プレジデント社、一九九一)、藤井正雄他『家族と墓』(早稲田大学出版部、一九九三)、藤井正雄「お墓の形態とその移りかわり」(別冊『太陽』一〇五、平凡社、一九九九)、藤井正雄・長谷川正浩編『Q and A 墓地・納骨堂をめぐる法律実務』(新日本法規出版、二〇〇一)、藤井正雄「都立霊園に期待するもの」(特集・都立霊園『都市公園』一七六、東京都公園協会、二〇〇七)
【参照項目】➡墓地、墓地、埋葬等に関する法律、土葬、火葬、永代供養
【執筆者:藤井正雄】