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己心の弥陀・唯心の浄土

提供: 新纂浄土宗大辞典

こしんのみだ・ゆいしんのじょうど/己心の弥陀・唯心の浄土

万法は一心であり、仏も浄土もわが心の内のものとすること。『八十華厳』に「若し人三世の一切の仏を了知せんと欲せば、まさに法界の性は一切唯だ心の造なりと観ずべし」(正蔵一〇・一〇二上~中)、『六十華厳』に「心と仏と及び衆生と、是の三に差別無し」(正蔵九・四六五下)とあり、『観経』には「諸仏如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想の中に入りたまう。この故に汝等、心に仏を想う時、この心すなわちこれ三十二相八十随形好なり。この心仏を作る、この心これ仏なり。諸仏正徧知海は、心想より生ず」(聖典一・二九八~九/浄全一・四三)とあり、また『維摩経』に「その心の浄きに随いて則ち仏土浄し」(正蔵一四・五三八下)とあるなど多くの経典は仏と浄土と心の関係を説いている。後世浄土教に大きな影響を与えた天台智顗は『法華玄義』に「一法を明して一切法を摂す。謂わく、心是れなり。三界に別の法無し、唯だ是れ一心の作なり」(正蔵三三・六九三中)といい、一切法はすべて心の所作であるとした。

智顗仏教を総合的に組織づけ体系化することに長じており、釈尊の教えを教観二門で示し南北朝時代の仏教を統一的にとらえた。教は理論の三諦円融、三千円具で、これに対する観は実践の一心三観一念三千で表明されており、三諦という真実のありかたも三千という諸法もすべてわが一心一念のうちにとらえようということで、実際の実践は『摩訶止観』に止観の実践として説示している。止観は心を一所に止めその対象を正しく観ずる智慧の眼を開くことにある。その対象とする一所について智顗は『法華玄義』の心と仏と衆生の関係をめぐる三法妙の釈に「広く心法を釈せば、前に明す所の法は、あに心と異なることを得ん。ただ衆生法ははなはだ広く、仏法ははなはだ高し、初学において難しとなす。しかるに心と仏と及び衆生、この三差別無ければ、ただ自ら己心を観ずるは、則ち易しとなす」(正蔵三三・六九六上)とし、衆生法は広すぎ、仏法は高すぎて初学には難であるため、もっとも身近な己心を対象とすれば容易であるとする。己心は『摩訶止観』によれば「介爾けにも心有らば即ち三千を具す」(正蔵四六・五四上)とあることから、凡夫の心はかすかな介爾心すなわち平生の心であって対象とし易いから、難に依らず易に依るべきことを明かしている。したがって止観の対象は衆生の平生の心であり、それがそのまま仏法衆生法を観ずることになるので止観観心とされる。

これに対して唐の善導は『観経疏定善義において「是心作仏と言うは、自の信心に依って、相を縁ずること作のごとし。是心是仏と言うは、心能く仏を想すれば、想に依って仏身現ず。すなわち、この心、仏なり。この心を離れて、ほか、更に異仏無ければなり。諸仏正徧知と言うは、これ、諸仏は円満無障礙智を得たまうをもって、作意と不作意とに、常に能く徧く、法界の心を知りたまう。ただ能く、想を作せば、すなわち汝が心想に従って、現じたまうこと、生ずるに似如たりということを明す。あるいは行者有り。この一門の義をもって、唯識法身の観と作し、あるいは自性清浄仏性の観と作す、そのこころはなはだあやまれり。絶えて少分も相い似たること無し。すでに、像を想えと言って三十二相仮立けりゅうせる者、真如法界の身、あに相有って縁ずべく、身有って取るべけんや。然るに法身は無色にして眼対を絶す。更に、類としてならぶべき無し。故に虚空を取って、以て法身の体に喩う。また今この観門等は、ただ方を指し相を立てて、心をとどめて境を取らしむ。すべて無相離念を明さず」(聖典二・二六九/浄全二・四七上~下)ということから、心外の仏が衆生の想いによって心想中に入り是心作仏とも是心是仏ともいわれるのであるとした。

この釈の影響を受けた宋代の学徒に警鐘を鳴らしたのが四明知礼とされる。知礼は『観無量寿経疏妙宗鈔』を著し、巻四に「心即ち弥陀を観ずべしと知り、心なお能く諸仏を作す。あに弥陀を感ぜず、心なお即ちこれ諸仏、あに即ちこれ弥陀にあらずや。まさに知るべし弥陀と一切仏と多からず少からず、諸仏すなわち一つなり。多くの弥陀はすなわち多なり。一一の心に繫念し諦観すれば彼の仏は即ち一心三観なり」(浄全五・二九六下~七上/正蔵三七・二二〇下)と述べるように心に即して阿弥陀仏を観ずるべきで、浄土も同様であって、ともに衆生の心中に本具しているとする。そのように観念することによっておのずから阿弥陀仏浄土も現れるとし、ここに己心弥陀唯心浄土ということが示されるようになった。この念仏即心念仏とも約心観仏ともいい、極楽依正二報は己心の本具とし、山外派の、『観経』は凡夫を導くためにただ事相に約して説かれたとの解釈は、この経の本義を失うものであるとした。知礼はまた『妙宗鈔』において「心仏同体を以て、心是仏と名づく。観より彼の果を生じ、心作仏と名づく。意、心即ち仏を念じ、及び果を慕い因を修しむ」(浄全五・二九六下正蔵三七・二二〇下)といい、本来仏と己心とは同一体であって、少しも変わらないのを是心是仏といい、己心と仏と少しも変わらないと思って仏名を唱えれば、己心がそのまま阿弥陀仏となるのを是心作仏であるとし、唯心本具の修証を示した。この即心念仏は山家山外の論争の一問題であったが、日本にも伝えられ、江戸中期には各宗をまきこむ一大念仏論争が展開されることになった。


【参考】福𠩤隆善「江戸中期における念仏論争」(『浄土宗学研究』六、一九七一)、同「仏と衆生—『観経』の〈是心〉釈をめぐって」(『浄土宗学研究』七、一九七二)


【参照項目】➡是心作仏是心是仏


【執筆者:福𠩤隆善】