是心作仏是心是仏
提供: 新纂浄土宗大辞典
ぜしんさぶつぜしんぜぶつ/是心作仏是心是仏
『観経』第八像想観の一節で、浄土宗では「この心仏を作る、この心これ仏なり」(聖典一・二九八/浄全一・四三)と読む。衆生が相好を有する阿弥陀仏を心に想うとき、仏は無礙智によってその心を知って作想する者の心に仏身を現す。この仏が示現している心こそ仏であるということ。仏と衆生の関係をいかに考えるかによって解釈が大きく分かれる経文であり、古来種々の議論がなされてきた。中国隋代の浄影『観経義疏』には「一つには仏観の始終について分別す。始学を〈作〉と名づけ、終成は即ち〈是〉なり。二つには現当分別なり。諸仏の法身は己と同体なり。現に仏を観ずる時、心中に現ずる者は即ち是れ諸仏法身の体なるを〈心是仏〉と名づく。己が当果に望み観に由りて彼に生ずるを〈心作仏〉と名づく」(浄全五・一八六上/正蔵三七・一八〇上)とあり、衆生心の本来清浄な側面を諸仏の法身と同体、つまり「是心是仏」であるとし、修行により衆生の心が仏となることを「是心作仏」であると解釈している。これ以降、吉蔵『観経疏』(浄全五・三四七下/正蔵三七・二四三下)や伝智顗『観経疏』(浄全五・二一二下/正蔵三七・一九二中)といった『観経』の諸注釈書においても同様の解釈がなされ、中国隋代以後、天台・華厳・禅などを学ぶ僧侶によって、この文は清浄な法身や仏性を衆生が本来具えていることを示すものであり、阿弥陀仏とはその法身や仏性の他に存在しないことを示すための経証として広く用いられた。これに対し、浄土宗では、善導『観経疏』の「〈是心作仏〉と言うは、自の信心に依って、相を縁ずること作のごとし。〈是心是仏〉と言うは、心能く仏を想すれば、想に依って仏身現ず。すなわち、この心、仏なり。この心を離れて、外、更に異仏無ければなり」(聖典二・二六八~九/浄全二・四七上~下)という解釈に基づき、「是心作仏」を有相の阿弥陀仏の姿を凡夫が心に作想することとし、「是心是仏」を仏が凡夫の想う心を知り、これに応じて心中に現れることとする解釈に依っている。つまりこの経文を、衆生の本来清浄な自性と同体の仏法身や唯心の阿弥陀仏を説いている経文とは受け取らず、凡夫が肉眼で見える仏の形像を観ずることを通して仏を想うとき、仏智の境界より相好を現じ、自らの意志で衆生を救おうとする阿弥陀仏がその心の中に示現するという、仏と衆生の而二相対の関係を示すものと理解する。
【資料】曇鸞『往生論註』(浄全一・二三一上/正蔵四〇・八三二上)、良忠『伝通記』定善義記(浄全二・三四三上~七下)
【参考】福𠩤隆善「仏と衆生—『観経』の〈是心〉釈をめぐって—」(『浄土宗学研究』七、一九七二)、服部英淳「指方立相論と本願称名念仏の意義」(『浄土教思想論』山喜房仏書林、一九七四)、柴田泰「中国浄土教と心の問題—『観経』〈是心作仏是心是仏〉理解—」(『仏教思想9心』平楽寺書店、一九八四)、吉水岳彦「『観経』〈是心作仏是心是仏〉釈をめぐって—『往生論註』を中心に—」(『仏教文化学会紀要』一五、二〇〇七)
【参照項目】➡像想観、法界身、指方立相、己心の弥陀・唯心の浄土、有相・無相
【執筆者:吉水岳彦】