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「御忌会」の版間の差分

提供: 新纂浄土宗大辞典

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一月二五日は[[御忌]]定めの教書伝達式、四月二日~七日は[[御忌]][[大会]]を厳修する。[[増上寺]]の[[御忌]][[大会]]の特色は[[縁山声明]]と呼ばれる[[増上寺]]特有の[[声明]]を主としたさまざまな[[法要]]と[[日中]][[法要]]の[[庭儀式]]である。今日の形式で勤めるようになったのは、明治三四年(一九〇一)四月の[[御忌]][[大会]]からで、[[唱導師]]が丁場(静岡山梨以東)で勤務するようになった。この年は一八日から二五日の間に[[結縁授戒]](一八~二二日)と[[御忌]][[法要]](二三~五日)を厳修した(『[[浄土教報]]』四三二)。翌年からは四月二三~五日に勤めた(『[[浄土教報]]』四八四)。現在、[[御忌]][[大会]]で勤めている[[法要]]は以下の通りである。四月二日の[[開白]]は[[献茶式]]、三~四日は[[詠唱]]奉納[[大会]]、五日の[[晨朝]]は阿[[弥陀]]<ruby>[[懺法]]<rt>せんぼう</rt></ruby>、[[日中]]は[[声明]][[法要]]、[[日没]]は歴代[[大僧正]]御[[年忌]]・尊宿式楽先亡追悼会。六日の[[晨朝]]は一宗[[法要]]、[[日中]]は引声[[法要]]、[[日没]]は大[[施餓鬼会]]百萬霊[[回向]]。七日の[[晨朝]]は[[宗祖降誕会]]([[音楽法要]])、[[日中]]は[[浄土法事讃]][[法要]]、[[日没]]は[[結願]]。[[日中]][[法要]]は、[[法要]]に先駆けて[[大殿]]前の庭儀台で[[増上寺]][[雅楽]]会が[[舞楽]]を奉納し、[[唱導師]]を中心として大門から練行列をする。その練行列は、[[先進]]—山旗—[[唱導師]]—木遣—寺侍—[[巡検]]—[[随喜]][[寺院]]—聖歌隊—[[百味講]]—[[稚児]]—[[会行事]]—[[式衆]]—[[会奉行]]—[[侍者]]—[[唱導師]]—大傘—[[伴僧]]—[[法類]][[随喜]][[寺院]]—[[巡検]]—[[稚児]]—総代—[[寺族]]—後詰と続く。[[大殿]]前で[[庭儀式]]をし、奏楽のなかを[[入堂]]し[[法要]]を厳修する。[[縁山声明]]は、天台[[大原]]流と全く趣を異にした関東武士風の力強い独自の旋律のものであり、元来将軍家の[[法事]]でのみ唱えるものであったが、明治期になって[[御忌会]]でも唱えられるようになった。
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二六世琴誉[[盛林]]代より大々的に勤められることになった。[[御忌]]<ruby>定式<rt>さだめしき</rt></ruby>は一月二五日。毎年四月二二日より二五日まで奉修し、[[本山]]縁故の幼稚園児による献灯献華に始まり、宝蔵より出された『[[一枚起請文]]』(二三、二四日)、「[[鏡の御影]]」(二五日)の<ruby>内拝<rt>ないはい</rt></ruby>を含んだ[[声明]][[法要]]である。[[唱導師]]が、[[大殿]]東側から[[入堂]]し東側から[[退堂]]するのは、二人[[導師]]であるためである。[[諷誦]]は鴨川の古式を伝えた曲調である。
 
二六世琴誉[[盛林]]代より大々的に勤められることになった。[[御忌]]<ruby>定式<rt>さだめしき</rt></ruby>は一月二五日。毎年四月二二日より二五日まで奉修し、[[本山]]縁故の幼稚園児による献灯献華に始まり、宝蔵より出された『[[一枚起請文]]』(二三、二四日)、「[[鏡の御影]]」(二五日)の<ruby>内拝<rt>ないはい</rt></ruby>を含んだ[[声明]][[法要]]である。[[唱導師]]が、[[大殿]]東側から[[入堂]]し東側から[[退堂]]するのは、二人[[導師]]であるためである。[[諷誦]]は鴨川の古式を伝えた曲調である。

2018年9月17日 (月) 12:44時点における版

ぎょきえ/御忌会

法然忌日法会のこと。各総・大本山をはじめ、全国の浄土宗寺院で営まれている。『法要集』には、御忌会および御忌会別式の差定が示されている。

知恩院

現在知恩院では、一月一八日に御忌定式さだめしきが大方丈の仏間(鶴の間)で行われ、門跡より唱導師逮夜導師の辞令が授与される。一月二五日は御祥当忌月法要勢至堂で修す。四月一八日、鳳詔頂戴式ほうしょうちょうだいしきが大方丈仙人の間(三段の間)で行われ、唱導師法要に先立って「大永の御忌鳳詔」を拝戴する儀式を行う。同日の開白法要では逮夜法要に先立って、御開扉ごかいひ作法と献華式が行われる。知恩院耆宿ぎしゅく門跡礼拝した後に宮殿前に進み、洒水作法をして宮殿の扉を開いてから逮夜法要を厳修する。逮夜法要では、式衆と出勤寺院しゃく念仏行道する。知恩院における御忌会日中法要の特色は、中央高座で「唱導」と「諷誦ごふじゅ」を唱える唱導師とその後方の高座門跡が座して厳修することである。法要前には、まず唱導師門跡に挨拶する導師拝礼を行い、御影堂みえいどう裏で西に向かって阿弥陀堂遥拝あみだどうようはい、東へ向かって御廟ごびょう遥拝し阿弥陀仏祖師唱導を勤める挨拶をする。また、西に向かうのは、御忌会の無事円成祈念に鎮守社を拝し(知恩院日鑑)、御忌の詔勅を賜った後柏原天皇に礼を尽くし御所遥拝するためとする説もある。二五日の御当日、導師知恩院に伝わる俊乗房重源将来雄誉霊巌遺物の伝衣の袈裟門跡より伝えられる作法を受ける。集会堂しゅうえどう法要随喜する出勤寺院荘厳衣を被着し、典謁てんえつの「○〇の国○〇寺」という独特の節回しの調読によって、座次に従って整列する。そして門跡式衆と共に古経堂より集会堂に昇堂し、その後に唱導師が続き、所定の場所に進む。「袈裟被着偈」が唱えられると、廊鐘が三下される。別席・準別席・式衆先進・役席・内役・門跡伴僧の順に御影堂へと進む。その後に、好身法類よしみほうるい唱導師伴僧大衆(出勤寺院)が順次参進。大衆一同が着座し、献香・献菓茶し、前伽陀が唱えられ、同音になってから、唱導師内陣に進んで大師前三拝後門跡に一拝して登高座する。「開経偈」『阿弥陀経』、散華さんげを唱えた後に、唱導を独唱する。その後御諷誦の独唱をして恩徳を讃歎する。雑諷誦黙読、発願文を唱え、御書拝読(選択集黙読)して、『一枚起請文』を大衆同和する。唱導師は心念説法し、補闕分終わって後伽陀同音下高座し、門跡に一拝して先に退堂する。賛念仏念仏一会・「自信偈」で門跡御忌回願をし、付回向の後に授与十念をして退殿する。唱導師は集会堂で門跡大衆を迎え、挨拶の拝礼をする。一八日の開白法要では献華式、逮夜法要後に高齢者招待祝賀会、二〇、二一日には吉水講詠唱奉納大会、二二日に納経法要、二三日の日中法要前に音楽法要日中法要に続き納骨諸堂参拝、二五日の日中法要前に献茶式(供茶式)、日中法要後に集会堂で満座式、御廟参拝して放生会によって御忌大会が成満する。平成二三年(二〇一一)は三月一一日の東日本大震災によって、元祖法然上人八〇〇年大遠忌法要は延期され、一〇月二日より二五日までの間に厳修された。四月一八日には法爾ほうに大師号の奉戴報告法要御忌逮夜法要の前に厳修した。


【資料】『御忌大会法則』(知恩院式衆会、一九九九)、『元祖法然上人八百年大遠忌法要差定』(知恩院、二〇一〇)、『元祖法然上人八百年大遠忌法要次第』(知恩院・同年)、『元祖法然上人八百年大遠忌浄宗会法要差定』(浄宗会事務局、知恩院、二〇一一)


【参考】『知恩院史』(知恩院、一九三七)、『古都巡礼 京都 一九 知恩院』(淡交社、一九七七)


【執筆者:南忠信】


増上寺

一月二五日は御忌定めの教書伝達式、四月二日~七日は御忌大会を厳修する。増上寺御忌大会の特色は縁山声明と呼ばれる増上寺特有の声明を主としたさまざまな法要日中法要庭儀式である。今日の形式で勤めるようになったのは、明治三四年(一九〇一)四月の御忌大会からで、唱導師が丁場(静岡山梨以東)で勤務するようになった。この年は一八日から二五日の間に結縁授戒(一八~二二日)と御忌法要(二三~五日)を厳修した(『浄土教報』四三二)。翌年からは四月二三~五日に勤めた(『浄土教報』四八四)。現在、御忌大会で勤めている法要は以下の通りである。四月二日の開白献茶式、三~四日は詠唱奉納大会、五日の晨朝は阿弥陀懺法せんぼう日中声明法要日没は歴代大僧正年忌・尊宿式楽先亡追悼会。六日の晨朝は一宗法要日中は引声法要日没は大施餓鬼会百萬霊回向。七日の晨朝宗祖降誕会音楽法要)、日中浄土法事讃法要日没結願日中法要は、法要に先駆けて大殿前の庭儀台で増上寺雅楽会が舞楽を奉納し、唱導師を中心として大門から練行列をする。その練行列は、先進—山旗—唱導師—木遣—寺侍—巡検随喜寺院—聖歌隊—百味講稚児会行事式衆会奉行侍者唱導師—大傘—伴僧法類随喜寺院巡検稚児—総代—寺族—後詰と続く。大殿前で庭儀式をし、奏楽のなかを入堂法要を厳修する。縁山声明は、天台大原流と全く趣を異にした関東武士風の力強い独自の旋律のものであり、元来将軍家の法事でのみ唱えるものであったが、明治期になって御忌会でも唱えられるようになった。


【参照項目】➡声明


【執筆者:石田祐寛】



金戒光明寺

二六世琴誉盛林代より大々的に勤められることになった。御忌定式さだめしきは一月二五日。毎年四月二二日より二五日まで奉修し、本山縁故の幼稚園児による献灯献華に始まり、宝蔵より出された『一枚起請文』(二三、二四日)、「鏡の御影」(二五日)の内拝ないはいを含んだ声明法要である。唱導師が、大殿東側から入堂し東側から退堂するのは、二人導師であるためである。諷誦は鴨川の古式を伝えた曲調である。


【参考】『黒谷誌要』(浄全二〇)


【参照項目】➡御忌定式


【執筆者:清水秀浩】


知恩寺

百万遍知恩寺御忌は現在、御忌唱導師お定め式を例年一月一二日に行い、四月二二日の逮夜法要開白、二五日まで行われる。晨朝法要には笏念仏行道日中法要には前伽陀開経偈阿弥陀経散華唱導後伽陀百万遍念仏数珠繰り、別回向次第して勤められる。逮夜法要引声阿弥陀経法要などを行っている。『百万遍知恩寺誌要』によれば、一九世慶竺御忌法式を定め諷誦法則を作り、現在の御忌の形式を定めたこと(浄全二〇・三一四上)が分かる。また同書にある寛政六年(一七九四)の「御忌法事式」(五四世祐水代)の記録(浄全二〇・三三六上)には、当時の御忌四箇法要で勤められていたこと、御忌説法が『選択集』の各章に基づき行われ、現存の記録から明治時代まではそれが継続されていたことなどが知られる。


【執筆者:大澤亮我】

清浄華院

一月二三日は御忌定式。四月二一~二三日に御忌大会を一日一座厳修している。一日目・二日目は唱讃導師による唱導、三日目は法主による親修となっている。唱讃導師唱導のみを行うのではなく、法主代理として御忌法要導師を勤めているということから、その僧階に関係なく緋衣を被着して払子ほっすを持ち、高座に登ることとなった。そのため、法要前伽陀中に法主に続いて唱讃導師入堂する。法主前机の正面で焼香した後、唱讃導師執事長の呼び出しによって、法主より払子を受け取る。この一連の作法によって唱讃導師法主代理としての大任を果たすことになる。平成二四年(二〇一二)の八〇〇年御遠忌より伝衣作法が復興された。この作法は一〇世等熈とうき所用の袈裟を復元して江戸時代に行われていたもので、誦経中に伴僧導師袈裟の上に伝衣を通肩にしてかける。


【執筆者:畦昌彦】

善導寺

大本山善導寺御忌は、一月二五日に修される一日一座の法会であり、日常勤行式に半斎供養御忌和讃を適所に配した次第で行われる。また昭和一〇年代までは一月一八日から七日間の別時念仏会が修され、二五日には雅楽白柱、鈸、雅楽青海波、惣礼、雅楽五常楽、四奉請阿弥陀経礼讃行道、法談の法要次第で行われていたことが記録されている。


【執筆者:金子泰蔵】

光明寺

大本山光明寺御忌会は、毎年一月二五日に勤修。写経会を行い、参拝者粥供養を施し、法話に続き御忌会法要を行う。式次第日常勤行式に基づいた一座の法要で、名号札を授けている。


【執筆者:三浦正英】

善光寺大本願

正月二五日と二月二五日の二回執行している。一山の正信坊本尊法然自刻の像と伝えられ、法然堂と称している。かつては、正月二四日正信坊に一山が集合して逮夜法要、翌二五日朝御忌法要を勤めた後、善光寺本堂御影を奉安し、大本願上人導師のもとに御忌法要を勤めた。現在は正信坊での法要は行われていない。そして二月二五日大本願本堂で厳修している。平成一〇年(一九九八)から四月一一日に長野教区と共催の御忌大会が同教区青年会が中心となって執り行われている。唱導師は同教区内から選出している。


【執筆者:若麻績侑孝】