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本願

提供: 新纂浄土宗大辞典

ほんがん/本願

悟りに至る以前の修行時代(因位)にたてた誓願の意。Ⓢpūrva-praṇidhāna。本誓願、本誓、本弘誓願因願宿願ともいう。サンスクリット語の原語pūrva-praṇidhānaは、直訳すると「以前の誓願」となる。すなわち「仏が仏になる以前(の修行時代)にたてた誓願」という意味。例えば、阿弥陀仏四十八願などはその典型といえる。法然遺文と伝えられる『四箇条問答』にも、「本願と云うことは、もとの願いと訓ずるなり。もとのねがいと云うは、法蔵菩薩の昔、常没の衆生を…我国に生ぜしめんと云うことなり。かるがゆえに本願というなり」(昭法全七〇〇)と説かれるとおりである。ただし、仏だけでなく、現在まだ修行中の菩薩についても、その誓願が既にたてられておれば、その誓願を以前にたてた誓願ということで本願とも呼ぶ場合もある。一方、「誓願」を意味するⓈpraṇidhānaⓈpraṇidhiが漢訳される際、「本願」と訳されることもあり、誓願本願が必ずしも明確に区別されていたわけではないことが知られる。本願はあくまでも願であるため、理論上はそれが成就してはじめて実行性が生ずるということになる。その本願の成就がいわゆる「願成就」である。願成就しているならば、修行も成就して成仏しているということになるため、願成就=修行の成就=成仏という関係が成り立つ。種々の本願の中には、願成就に関してはあまり強調しないものもあるが、阿弥陀仏本願の場合、願が成就しなければ仏と成らないということが誓われており、その点で本願の成就が強く意識されているといえる。実際、『無量寿経』などはまさに本願と願成就を説く経典と見なすことができ、浄土教論書などでは「本願成就身」としての阿弥陀仏、「(本)願所成」(本願によって成立した存在)としての極楽浄土ということが言及・強調される。浄土教において本願は、実質的には阿弥陀仏四十八願、もしくはその内の第十八願を意味する場合が大半といえる。特に法然の場合、『選択集』六で「およそ四十八願、皆本願なりといえども、殊に念仏を以て、往生のりと為す」(聖典三・一三五/昭法全三二六)と説かれたり、第十八願が「本願の中の王」(同)と位置づけられていることからして、第十八願こそが本願の中心と考えられていたといえる。法然はまさにこの第十八願に説かれた称名念仏のみが本願の行であると見なして「専修念仏」の教えをたて、専らに念仏すれば阿弥陀仏本願力に乗じて必ず往生できるとした。なお、「本願」はOriginal Vowと英訳される場合が多いが、本願の「本」とは「本質的な、根本的な、本来的な」という意味ではなく、原語からも分かるように「もとの、以前の」という意味である。また、西山義では阿弥陀仏そのものを「弘願本願)の体」と見なすが、鎮西義ではそうした見方はしない。


【参考】藤田宏達『原始浄土思想の研究』(岩波書店、一九七〇)


【参照項目】➡願成就文誓願四十八願総願・別願本願力


【執筆者:安達俊英】