当麻曼陀羅
提供: 新纂浄土宗大辞典
たいままんだら/当麻曼陀羅
観経曼陀羅の一つ。奈良県當麻寺の宝庫に保存する「綴織当麻曼陀羅」を原本とする。浄土三曼陀羅の一つ。原本は軸装されて縦三九四・八センチ、横三九六・八センチの奈良時代(唐時代)のもので国宝である。板に貼付されてきたが延宝年中(一六七三頃)にもとに復した(板面に貼られた年代は明らかでない。一説には仁治年中〔一二四〇年頃〕以降という)。中央に阿弥陀浄土の荘厳を織り、左右下の三縁に『観経』の説相を織った図絵である。下縁に織った縁起文には「天平宝字七年(七六三)六月二十三日」の日付があり、発願者である中将姫(法如・中将の局ともいう)が蓮の糸で織ったとある。中将姫については、藤原豊成(横佩の大臣とも。七〇四—七六五)と妻紫の前、あるいは藤原百能との間に生まれた娘とするなど諸説あり、鎌倉光明寺の『当麻曼陀羅縁起』には、「よこはぎのおとどといふ人のむすめ」(浄全一三・七〇二上)と出ている。中将の局の名は、鎌倉時代の『私聚百因縁集』には中将内侍、聖聡の『当麻曼陀羅疏』八には中将姫とある。縁起には蓮糸で織ったと記すが、近年、この糸は上質の金糸絹糸と検証された。この曼陀羅の発見流布は証空によるところが大きく、註記の著作や信仰布教に努めたとされる。念仏信仰の高まりは当麻曼陀羅への関心を深め、聖聡は『当麻曼陀羅疏』四八巻を著し、専修念仏の指針とした。また、袋中や、義山、大順など多くの研究者が図絵の解説に努めた。
原本の転写の第一転は「建保曼陀羅」と称し建保二年(一二一四)に行われたが、室町時代の畠山の乱ののち紛失して現状は不明である。第二転は「文亀曼陀羅」と呼ばれ、絹本著色の国重要文化財とされるもので、明応四年(一四九五)に転写を始め、約一〇年を費やし、文亀三年(一五〇三)に銘文が成っている。現在、當麻寺曼陀羅堂に奉安される新図と称するものである。第三転は、京都大雲院の性愚が転写した絹本著色のもので、貞享三年(一六八六)に銘を入れ、「貞享曼陀羅」と称する。現在は當麻寺に保存する。原本の藕糸曼陀羅は当初の図絵の三分の一ほどが残っているに過ぎず、多くは後に補われたものであるが、三尊会などの仏の姿に秀でた綴織りの図絵を観ることができる。下縁はほとんど補修されているので、九品段の絵相に新図と異なるものも作られている。他に「裏板曼陀羅」と称するものがあり、性愚が板張りから軸装に戻すとき、板に残った絵の跡で、曼陀羅堂の裏堂にある。また、「印紙曼陀羅」「移りの曼陀羅」と称するものがあり、藕糸曼陀羅を板より剝がす際、表面に貼った紙に写ったものである。現在、京都西光寺に保存する。当麻曼陀羅は普及するに従って、同寸、四分の一、一六分の一などの大きさの織物、彩色木版、写真などが各地で作られた。京都や東京で作られた記録や現物があり、知恩院や増上寺、百万遍知恩寺、清浄華院など各地に所蔵される。特に木造大型で内陣外陣を組み立てた春日部円福寺の「厨子入木彫当麻曼陀羅図」や京都真如堂、酒田の浄徳寺などに精巧な刺繡のものがある。黄檗宗の隠元に従って来日した独湛は、当麻曼陀羅に関心をもち、「独湛曼陀羅」と呼ばれる当麻曼陀羅を作った。
義山『当麻曼荼羅述弉記』の分科によれば、中央浄土荘厳を六段に分け、宝地、宝樹、宝池、宝楼、華座、虚空の各段とする。三方の外辺は、右縁の序分一一、左縁の定善一三、下縁の散善九とする。まず序分の一一を五つに分ける。父王頻婆娑羅を捕らえ留めおく禁父縁、母韋提希を捕らえ留めおく禁母縁、韋提希が苦を厭い、釈尊に救いを求める厭苦縁、韋提希が浄土を欣求する欣浄縁、霊鷲山での化前縁である。左縁は定善で心を集中して行う観想を上より順に描く。日の入りを観て浄土を想う日想観、水を観て極楽の地面を想う水想観、輝く宝地を想う宝地観、樹の荘厳を想う宝樹観、八功徳水を想う宝池観、華麗な宮殿楼閣を想う宝楼観、仏の蓮華座を想う華座観、仮の仏・菩薩を想う像想観、仏の真身を想う仏身観、観世音菩薩の化益を想う観音観、智慧光を想う勢至観、わが身の往生した姿を想う普観、極楽の一切の荘厳を想う雑想観である。下縁は散善で心の散り乱れ易い凡夫の九品来迎を図絵する。向かって右の上品上生より左へと移る。上品三生の大乗の凡夫往生を明かし、中品三生の小乗を修学する凡夫往生を説き、下品三生の悪に遇う凡夫往生を示す。
【資料】『建久御巡礼記』(藤田経世編『校刊美術史料 寺院篇』上、中央公論美術出版、一九九九)
【参考】陳阿霊仰述・横井徹山編『当麻曼陀羅講説』(岸和田光明寺、一九二九)、『大和古寺大観 第二巻 當麻寺』(岩波書店、一九七八)【図版】巻末付録
【参照項目】➡観経曼陀羅、奥院二、当麻曼陀羅縁起、当麻曼陀羅講説、当麻曼陀羅疏
【執筆者:塩竈義弘】