寿命無量
提供: 新纂浄土宗大辞典
じゅみょうむりょう/寿命無量
寿命が無量であるという阿弥陀仏の徳相のこと。単に阿弥陀仏の寿命が量り知れないというだけではなく、その救済のはたらきも時間的な限定が存在しないことを意味する。これは『無量寿経』上において阿弥陀仏(法蔵菩薩)が建てた四十八願のうち、第十三の寿命無量願に「もし我れ仏を得たらんに、寿命能く限量あって、下、百千那由他劫に至らば、正覚を取らじ」(『無量寿経』上、聖典一・二二六/浄全一・七)と誓ったことが成就した果報であり、それは願成就文として「仏、阿難に語げたまわく。また無量寿仏の寿命長久にして、称計すべからず」(聖典一・二三八/浄全一・一三)とあることから知られる。また法蔵菩薩は同時に第十五願の眷属長寿願において「もし我れ仏を得たらんに、国中の人天、寿命能く限量なからん。その本願あって、脩短自在ならんをば除く。もししからずんば、正覚を取らじ」(聖典一・二二六/浄全一・七)と眷属の長寿も誓っており、その願成就文で「声聞・菩薩・天・人の衆の寿命の長短も、またかくのごとし」(聖典一・二三八/浄全一・一四)とあり、『阿弥陀経』にも「かの仏の寿命、およびその人民、無量無辺阿僧祇劫なり」(聖典一・三一八/浄全一・五三)とあるように、阿弥陀仏だけでなく、極楽の衆生も寿命無量であることが分かる。
法然は『三部経大意』において寿命無量願と光明無量願に言及し「然れば光明無量の願は、横に十方衆生を広く摂取せんが為なり。寿命無量の願は竪に三世を久しく利益せんが為なり。此の如く因縁和合すれば、摂取不捨の光明、常に照らして捨て給わず」(昭法全三二)として、光明無量願は横に広く、すなわち空間的に限定されることなく、寿命無量願は竪に久しく、すなわち時間的に限定されることなく、それぞれ衆生を救済するための願であり、これらが和合するからこそ摂取不捨の光明が常に照らされている、と説いている。さらに『逆修説法』三七日では、「惣じて仏の功徳を論ずるに能持所持の二義有り。寿命を以て能持と云い自余の諸功徳を悉く所持と云うなり。一切の万徳はみな寿命の持つ所なるが故なり。…ただ彼の仏寿命無くば、彼等の功徳荘厳等、何に依りてか留まるべき。然れば四十八願の中にも、寿命無量の願に自余の所願をば納めたるなり。たとい第十八願の念仏往生の願、広く諸機を摂して済度するに似たりと雖も、仏寿もし短くば、その願なお広からず。…これを以てこれを思えば、済度利生の方便、寿命の長遠なるに過ぎたるは無く、大慈大悲の誓願、寿命の無量なるに顕るる故なり」(昭法全二四八~九)と説き、阿弥陀仏の寿命は諸願の能持であり、諸願はみな寿命無量の願に納められ、寿命無量であるからこそ、第十八願によって一切の衆生を救済することができる、としている。同じく『逆修説法』三七日では、寿命無量は衆生救済が永遠になされるためであるとともに、衆生に、寿命無量が得られる極楽へ往生する心を発さしめるためである、としている。
他方、浄影寺慧遠は『観経義疏』本において、『観世音菩薩受記経』に説かれる阿弥陀仏入涅槃説を典拠として、阿弥陀仏は寿命に限りがある応身(化身)であるが、凡夫や二乗には量り知れないから「無量寿」と称するに過ぎない、としている。また智顗も『法華文句』九下において、阿弥陀仏は寿命に限りがあるのを無量と称している、としている。このような、阿弥陀仏は入滅する、だから応身(化身)である、との解釈に対して、道綽は『安楽集』で、真の入滅ではなく、報身の休息隠没の相である、と反論している。
【執筆者:曽和義宏】