如実修行相応
提供: 新纂浄土宗大辞典
2018年3月30日 (金) 06:31時点における192.168.11.48 (トーク)による版
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にょじつしゅぎょうそうおう/如実修行相応
真実の道理にかなった修行を行い、仏の聖意と合致すること。曇鸞の理解によれば、二知三信をそなえ称名憶念すれば、無礙光如来の名号が衆生の煩悩を除き志願が満たされること。世親『往生論』に五念門のうち讃歎門を解釈するなかに「彼の名義の如く、如実に修行して相応せんと欲す」(聖典一・三六二/浄全一・一九三)とあるのに対し、『往生論註』下に「かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満たす。しかるに称名憶念すれども、無明なお在りて所願を満たさざる者のあるは何ぞや。如実に修行せずして名義と相応せざるに由るなり」(浄全一・二三八下)と述べたうえで、阿弥陀仏を実相身・為物身と知り(二知)、信心をあつくし、定め、相続すること(三信)を、如実に修行し、名義と相応することであるとしている。なお「如実修行」の原語はⓈanudharma-pratipattiやⓈbhāvanā等が対応するが、瑜伽行派の注釈書ではanudharma-pratipattiを「奢摩他と毘婆舎那の修習(bhāvanā)」に他ならないと定義する。この定義に相応するように、『往生論』の五念門のうち第三の作願門について「如実に奢摩他を修行せんと欲す」と述べ、第四の観察門について「如実に毘婆舍那を修行せんと欲す」と述べている。したがって『往生論』の原義によれば第二の讃歎門は「如実に相応を修行せんと欲す」と訓ずるべきであるといえる。
【参考】望月信亨『中国浄土教理史』(法蔵館、一九六四)、同『浄土教概論』(弘文堂書房、一九四〇)、櫻部建『増補版仏教語の研究』(文栄堂書店、一九九七)、色井秀譲『浄土念仏源流考—大無量寿経とその周辺』(百華苑、一九七八)
【執筆者:石川琢道】