重源
提供: 新纂浄土宗大辞典
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ちょうげん/重源
保安二年(一一二一)—建永元年(一二〇六)六月五日。平安時代後期から鎌倉時代初期の僧。父は紀季重(一説に季良)。一三歳で醍醐寺に入寺し、俊乗房、のちに南無阿弥陀仏と号した。若き日に大峯、熊野、御岳、高野山、四国など各地で修行を重ね、仁安二年(一一六七)に入宋し栄西と出会い、天台山、阿育王山に登ったと伝える。翌年帰朝し、安元二年(一一七六)には高野山延寿院に梵鐘を施入している(梵鐘銘)。治承四年(一一八〇)南都東大寺が平重衡により焼き討ちにあうと、その翌年六一歳の高齢をおして大勧進職を拝命し復興に尽力した。後白河法皇、源頼朝らの外護を受けて勧進事業を推し進め、寿永二年(一一八三)には宋人陳和卿の協力を得て大仏の鋳造をほぼ完成し、翌年後白河法皇臨席のもと、大仏開眼供養を挙行し大和尚位に叙された。また仏師運慶、快慶らの尽力で大仏殿四天王、二菩薩像、南大門金剛力士像などの巨像群を相次いで再興した。また、播磨国、周防国、備前国が造東大寺領に充てられると、各地に別所を設営し、迎講や如法経供養などを催した。『四十八巻伝』一四によると文治二年(一一八六)には南都の明遍、貞慶ら学匠とともに京都大原勝林院において、いわゆる大原問答に列したという。建久元年(一一九〇)には法然を東大寺に招き半作の大仏殿において「観経曼陀羅」「浄土五祖像」をかけ供養・讃歎したと伝えられる。同六年に大仏殿は上棟にこぎつけ、建仁三年(一二〇三)には東大寺総供養を執行した。その三年後の建永元年法然門下の行空、遵西らによる事件(建永の法難)では院の詮議がなされ、関白松殿基房がその処分を重源に諮ろうとしたが、ほぼ時を同じくして東大寺にて没した。法然との直接的な関係が認められる史料は確認できないが、法然の門下にも多く重源流の阿弥陀仏号を名乗るものがいたことを、慈円が『愚管抄』のなかで述べている。
【参考】小林剛『俊乗房重源の研究』(有隣堂、一九八〇)、同編『俊乗房重源史料集成』(吉川弘文館、一九六五)
【執筆者:青木淳】