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勝林院

提供: 新纂浄土宗大辞典

しょうりんいん/勝林院

京都市左京区大原勝林院町。魚山大原寺。天台宗延暦寺別院法然上人二十五霊場第二一番。法然と諸宗の碩学との論議、大原問答の遺跡。長和二年(一〇一三)寂源じゃくげん大原に入山して創建。大原魚山声明の根本道場となった。文治二年(一一八六)秋、顕真の招きで法然が丈六堂で諸宗の碩学と聖道浄土の二門について論議すること一日一夜、浄土門時機相応の教えと皆が承伏し、三日三夜念仏を修したという。本尊の丈六阿弥陀仏は、寛仁四年(一〇二〇)覚超と偏救が論議したとき相を隠顕し、法然の論議のときも「声を出す」「光明を放つ」などの奇瑞を現し、論議の証拠に立ったという。本堂春日局かすがのつぼね発願により崇源院追善のため将軍家が再建し、寛永一〇年(一六三三)再興供養が行われたが、享保二一年(一七三六)正月焼失。本尊とともに法然御影も焼失したが、二十五霊場の巡拝講である大坂講が新たな御影を納めた。安永七年(一七七八)に現本堂が再建。先の覚超と偏救との論議の際のいわれから本尊は「証拠の弥陀」、本堂は「証拠(阿弥陀)堂」と呼ばれる。正和五年(一三一六)銘の石造宝篋印塔梵鐘は国重要文化財。


【資料】『四十八巻伝』一四、『翼賛』五一、『山州名跡志』五(『新修京都叢書』一五、臨川書店、一九六九)


【参考】山本博子「法然上人霊跡第二十一番大原勝林院について」(『史学論集—佛教大学文学部史学科創設三十周年記念—』(佛教大学文学部史学科創設三十周年記念論集刊行会、一九九九)、荻美津夫「寂源と勝林院」(義江彰夫編『古代中世の史料と文学』吉川弘文館、二〇〇五)、鈴木久男他「京都大原魚山勝林院本尊阿弥陀如来像調査並びに所蔵品整理作業中間報告書」(『京都産業大学論集人文科学系列』四七、二〇一四)【図版】巻末付録


【参照項目】➡法然上人二十五霊場大原問答


【執筆者:山本博子】