救済
提供: 新纂浄土宗大辞典
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きゅうさい/救済
すくい。また、すくうこと。「くさい」とも読む。自分以外の他なる力によって苦・悩・危・害・罪・悪をまぬかれること。とくに宗教を信仰することによって宗教的な境地に至らしめられること。この語はⓈtrāṇa(護・救護・救)を語源とするⓈparitrāṇa、すなわち「救・救済・救抜」の意味を有する。浄土教では、衆生救済のために誓願を立てた法蔵菩薩がその誓願を成就した身である阿弥陀仏を信仰することが基軸になるので、救うもの「阿弥陀仏」と、救われるもの「衆生・凡夫」という関係のありかたとして強調される。『無量寿経』に「如来、無尽の大悲をもって、三界を矜哀す。所以に世に出興して、光く道教を闡き、群萌を拯わんと欲して、恵むに真実の利をもってす」(聖典一・二一八/浄全一・三)とあり、また、『観経』には「一一の光明、徧く十方の世界を照らして、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」(聖典一・三〇〇/浄全一・四四)とある説示は、救いの成り立つ根源が仏にあることを物語っている。善導の『観経疏』玄義分で「諸仏の大悲は、苦者においてす。心偏に常没の衆生を愍念す。ここを以て勧めて浄土に帰せしめたまう。また水に溺れたる人のごときは急にすべからく偏に救うべし、岸上の者をば何ぞ済うことを用てせん」(聖典二・一七二/浄全二・六上)とあるのは、罪悪生死の苦海に浮沈する衆生をこそ、まず彼岸へ救い渡すことを言い、救いの対象が明確に述べられているが、救済という熟語にはなっていない。法然の『選択集』では「救済」「済度」の言葉は用いられておらず、「行者を護念す」「除罪」「滅罪」などの表現を見ることができる。『禅勝房伝説の詞』には「阿弥陀仏の本願は名号をもて罪悪の衆生を導かんと誓いたま」(聖典四・四八七/昭法全四六二)うとあるような表現を通して、広い意味で阿弥陀仏の衆生に対する救いの様態を理解することができる。キリスト教で救済とは、その語源から「神の意思にそむいた人類が神の子イエス・キリストによって再び神と和解する(再結合・re-ligio)」ことである。神の恩寵によってすくわれるところに救済の本来的意味があり、このことは、神と人間とが創造主と被造物との関係として捉えられることによって救済ということが特色づけられることを意味する。救済の構造的な観点から言えば、例えば法然法語の『示或人詞』で「弥陀の本願を決定成就して極楽世界を荘厳し立てて、御目を見回して我が名を称うる人やあると御覧じ、御耳を傾けて、我が名を称する者やあると、夜昼聞し召さるるなり。されば一称も一念も阿弥陀に知らせまいらせずという事なし、されば摂取の光明は我が身を捨てたまう事なく、臨終の来迎は虚しき事なきなり」(聖典四・五一二/昭法全五八八)という説示のように、阿弥陀仏と我ら衆生とが救済者と被救済者の関係として表現される。しかし、ここに言う救済成就に至る関係は、浄土教独自の阿弥陀仏観と凡夫観によるものであって、キリスト教における場合とはまったく異なる。浄土教では、阿弥陀仏の慈悲の働く本願力のもとで常没流転する罪悪生死の衆生凡夫が称名念仏することによって、阿弥陀仏の西方極楽浄土へ往生することを救済の究極的実現とする。それゆえに、一見するところ救済教としての浄土教とキリスト教との相似性が示されているようではあるが、両者におけるこの語を無条件的に同一としてはならない。
【参考】藤本淨彦『法然浄土教の宗教思想』(平楽寺書店、二〇〇七)
【参照項目】➡済度
【執筆者:藤本淨彦】