八幡大菩薩
提供: 新纂浄土宗大辞典
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はちまんだいぼさつ/八幡大菩薩
八幡神を尊崇する称号。平安時代、神仏習合思想に基づき、神の本地として菩薩・権現などの尊号が付されたが、八幡神も、一切衆生が救済されるまでは仏の位には至らないとの誓願を立てた菩薩であるとして、大菩薩号が授けられた。天応元年(七八一)に「護国霊験威力神通大菩薩」(『東大寺要録』)、延暦二年(七八三)に「大自在王菩薩」(『扶桑略記』『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』)の号を朝廷から授けられたという。「八幡大菩薩」の称は、延暦一七年(七九八)と大同三年(八〇八)の「太政官符」にみえ、『延喜式』神名帳には「八幡大菩薩宇佐宮」と登載されている。八幡神は、欽明天皇の頃に示現した九州宇佐氏の氏神にはじまるとされるが、奈良時代、東大寺大仏造立の助成を託宣して中央進出をはたし、鎮護国家の神となった。国家と結びついた八幡神は応神天皇を主座とし、神功皇后、比売大神(もしくは仲哀天皇)の三座をいうようになり、貞観二年(八六〇)に僧行教が平安京の鎮守として石清水八幡宮(京都府八幡市)を勧請すると、天照大神につぐ宗廟神となった。さらに清和源氏の崇敬を得ると、石清水の社前で元服した源義家は八幡太郎と名乗り、頼朝は鎌倉幕府の鎮守神として鶴岡八幡宮を創建した。弓矢の神、武士の守護神として全国に広まり、地方郷村の氏神・産土神としても勧請された。八幡大菩薩の姿は、右手に金剛杖をもち、光背と日輪が配され僧形で描かれて、東大寺や薬師寺の僧形八幡神像が有名である。空海・最澄・円仁は渡唐の平安を八幡大菩薩に祈り、ことに最澄は八幡宮に詣で『法華経』を講じると、大菩薩が袈裟を授けたという(『叡山大師伝』)。『続本朝往生伝』「真縁伝」は石清水八幡の本地を阿弥陀仏とする初見であるが、各地の八幡社では不断念仏が盛んとなり八幡信仰と念仏とが結びついた。嘉禎三年(一二三七)成立の『四巻伝』は、法然の中陰法要に関する記事中に「真縁伝」を引き、別当入道の孫の法然葬送の夢に八幡宮があらわれたことにより、法然と八幡宮本地である釈迦・弥陀とが一体であることを説いている。
【参考】中野幡能編『八幡信仰』(『民衆宗教史叢書』二、雄山閣、一九八三)
【参照項目】➡神仏習合
【執筆者:工藤美和子】