「二十五菩薩来迎会」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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にじゅうごぼさつらいこうえ/二十五菩薩来迎会
阿弥陀仏と聖衆二十五菩薩が極楽から迎えにくる来迎引接を表現した法会。迎講、迎接会、練供養などと、またお面をかぶって菩薩を演じることから「お面かぶり」ともいう。『古事談』三に「迎講は恵心僧都始給事也。三寸小仏を脇足の上に立て、脇足の足に緒を付て引寄々々して涕泣給けり。寛印供奉それを見て智発して、丹後迎講をば始行云々」(『国史大系』一八・六〇)とある。また『私聚百因縁集』八に「日夜旦暮しかしながら本願を胸の内におき、剰さへ都卒を谷の上に移して花台院を立て、丈六の来迎の聖容を安じ、解脱戒心の境娑婆の辻に行者の草庵を結んで迎講を結構す。かくの如くして常に最後正念にして臨終には仏の来迎を見る儀式を思知る」(仏全一四八・一四七上)とある。源信が二十五菩薩の面を彫刻して比叡山横川花台院で初めてこれを行い、寛印はこれに次いで天橋立で修したという。奈良當麻寺で行われている法会は、寛弘二年(一〇〇五)に源信が横川から移し修したと伝え、その後、一二世紀から一三世紀にかけて急速に普及していった。迎講は教化の目的で始められたが、後には追善儀礼の趣が強くなった。現今も同寺のほか、岡山誕生寺・東京九品仏浄真寺・京都泉涌寺即成院・和歌山得生寺・大阪大念仏寺などで勤修している。當麻寺の儀式をみると、中将姫を浄土に迎えるために、まず極楽浄土を擬した極楽堂(曼陀羅堂)と、この世にたとえた娑婆堂の間に菩薩が渡る来迎橋が架けられる。極楽堂から僧侶、稚児に続き二十五菩薩の聖衆に扮した菩薩講の人達が介添の人と共に娑婆堂に向かって進む。その最後尾は蓮台をもつ観音菩薩(スクイボトケ)、合掌姿の勢至菩薩(オガミボトケ)であり、「来迎和讃」に合わせて娑婆堂に向かう。娑婆堂に待つ往生者(中将姫)のもとに至った観音勢至両菩薩は、蓮台に往生者を乗せ極楽堂へと迎え取り、それに続いて二十五菩薩・稚児・僧侶が極楽堂へと戻っていく。他寺もこれに類似しているが、特殊な例として六観音や地蔵菩薩の迎講もある。往生思想と弥陀・聖衆の信仰に基づき、来迎図を動的に立体化したのが迎講である。
【参考】佛教大学民間念仏研究会編『民間念仏信仰の研究 資料編』(隆文館、一九六六)、「仏教民俗の研究」(『伊藤唯眞著作集』三、法蔵館、一九九五)【図版】巻末付録
【執筆者:川中教正】