「八種選択」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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はっしゅせんちゃく/八種選択
「浄土三部経」と『般舟三昧経』の説示に基づいて、弥陀・釈迦・諸仏の三仏が、同心に浄土往生の行として、諸行ではなく称名念仏一行を定め、讃え、付属するなど八つの側面から選択(取捨)していることを明らかにした思想内容。『選択集』一六において法然が創唱し、次の八種を明らかにした。①選択本願—『無量寿経』において、阿弥陀仏がその因位である法蔵菩薩時代、世自在王仏が示した二百一十億の仏土における種々なる行の中から、諸行を劣難の行として選捨し、称名念仏一行を浄土往生が叶う勝易の功徳を具えた行として本願に選取し、定めたこと。『選択集』三「念仏往生本願篇」に詳説される。②選択讃歎—『無量寿経』において釈尊が、三輩の文中に浄土往生の行として「家を捨て欲を棄て沙門となる」「菩提心を発す」「斎戒を奉持す」「塔像を起立す」「沙門に飯食せしむ」などの種々の行を挙げながらも、流通分に至ってそれらの行を有上小利の行として選捨し、称名念仏一行を浄土往生が叶う無上大利の功徳を具えた行として選取し、讃歎したこと。『選択集』五「念仏利益篇」に詳説される。③選択留教—『無量寿経』流通分において釈尊が、その他の経典や諸行を選捨して留めおかず、一切衆生の救済を目指す大慈悲をもって、『無量寿経』すなわち念仏一行を選取し、法滅百歳の後までも留めおいたこと。『選択集』六「末法万年に特り念仏を留むる篇」に詳説される。以上の三種は『無量寿経』の説示に基づいている。④選択摂取—『観経』において、浄土往生の行として広く定散二善の諸行が説かれながらも、阿弥陀仏の光明は、それらの諸行を修める者を選捨して、念仏一行を称える者を選取して照らし救い、浄土往生を必ず叶えること。『選択集』七「光明ただ念仏の行者を摂する篇」に詳説される。⑤選択化讃—『観経』下品上生において、「聞経の善」と「念仏の行」との二善を行じた往生人の命終にあたり、来迎した阿弥陀仏の化仏が「汝、仏名を称するが故に、諸の罪消滅すれば、我れ来って汝を迎う」(聖典三・一五八/昭法全三三六)と告げ、「聞経の善」に言及せずに選捨し、「念仏の行」のみを選取し、讃歎したこと。『選択集』一〇「化仏讃歎篇」に詳説される。⑥選択付属—『観経』において釈尊が、定散二善の諸行を種々に説きながらも、流通分に至って諸行を選捨して付属することなく、念仏一行を選取して未来永劫に伝持すべく阿難に付属したこと。『選択集』一二「仏名を付属する篇」に詳説される。以上の三種は『観経』の説示に基づいている。⑦選択証誠—『無量寿経』『観経』などの経典に浄土往生の行が種々に説示されてはいるものの、『阿弥陀経』において、六方恒沙の諸仏が、それらの諸行を選捨して浄土往生が叶う行として証明(証誠)せず、念仏一行を浄土往生が叶う行として選取し、広長の舌を舒べて証誠したこと。『選択集』一四「六方諸仏ただ念仏の行者を証誠したまう篇」に詳説される。この選択証誠は『阿弥陀経』の説示に基づいている。⑧選択我名—『般舟三昧経』所説の「何れの法を持すれば此の国に生ずることを得るや。阿弥陀仏報えて言く、来生せんと欲する者は、当に我が名を念じて休息有ることなければ、則ち来生することを得」(正蔵一三・八九九上~中)という一節を踏まえ、阿弥陀仏が、浄土往生の行として諸行を選捨し、念仏一行を選取して相続するようにと説示したこと。この選択我名は、他の七種と異なり『選択集』に章を設けて語られてはいない。これら八種選択について法然が「本願と摂取と我名と化讃と、この四はこれ弥陀の選択なり。讃歎と留教と付属と、この三はこれ釈迦の選択なり。証誠は六方恒沙諸仏の選択なり。然ればすなわち、釈迦、弥陀および十方の各恒沙等の諸仏、同心に念仏の一行を選択したまう。余行は爾らず。故に知んぬ。三経ともに念仏を選んで、以て宗致とするのみ」(『選択集』一六、聖典三・一八四~五/昭法全三四七)と説示しているように、八種選択の主体がすべて弥陀・釈迦・諸仏という仏説であることを見逃してはならない。
そもそも八種選択の素地は、『選択集』以前に説示された東大寺講説「三部経釈」や『逆修説法』にも確認されるが、三仏による選択が成立するのは『選択集』が嚆矢であり、それは弥陀化身善導と偏依善導一師の成立と重なる。すなわち法然は、弥陀化身善導による弥陀直説としての『観経疏』にある「仰ぎ願わくは、一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して依行せよ。仏の捨てしめたまう者はすなわち捨て、仏の行ぜしめたまう者をばすなわち行じ、仏の去らしめたまう処をばすなわち去れ」(聖典三・一四一/昭法全三二九)との説示に、仏による取捨という選択思想の端緒を見出し、さらには「一仏は一切仏なり。所有る知見・解行・証悟・果位・大悲等同に少しの差別無し。この故に一仏の制する所は、すなわち一切の仏同じく制したまう…同体の大悲なるが故に。一仏の所化は、すなわちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は、すなわちこれ一仏の所化なり」(聖典三・一四四~五/昭法全三三〇)との説示に三仏同心の意を求めることにより、弥陀一仏による選択本願念仏思想を敷衍化した三仏同心による八種選択という画期的な思想を構築し得た。そして、八種選択の成立によって法然は、自身が創見した選択本願念仏思想に絶対的・普遍的価値を与え、さらには自身の開宗した浄土一宗が一代仏教中に確固たる位置を占める道を切り拓くことに成功したのである。
なお法然が創唱した八種選択を受けて聖光は『徹選択集』上(聖典三・二七九~八三/浄全七・九二下~五上)において、菩薩や人師にまで選択の主体を拡大した二十二選択を、さらに聖聡は『徹選択本末口伝鈔』上(浄全七・一四三上)において、法然の八種選択と聖光の二十二選択に、さらに新たに四種を加えた三十四選択を提唱している。
【参考】藤堂恭俊「法然の八種選択義と善導教学」(『法然上人研究』山喜房仏書林、一九八三)、安達俊英「法然上人における選択思想と助業観の展開」(『浄土宗学研究』一七、一九九一)、林田康順「『選択集』における善導弥陀化身説の意義—選択と偏依—」(『仏教文化研究』四二・四三合併、一九九八)
【執筆者:林田康順】