「一生補処」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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− | [[菩薩の階位]]における最高位。迷いの生存として今生の一度だけ縛られている者、次の生存では仏になることができる位にある[[菩薩]]のこと。Ⓢekajāti-pratibaddhaⓉskye ba gcig gis thogs pa。一生<ruby>所繫<rt>しょけ</rt></ruby>とも訳されるほか、略して[[補処]]ともいう。[[玄一]]の『[[無量寿経]]記』上によれば、[[一生補処]]の[[菩薩]]には[[穢土]]の[[菩薩]]についていうと住定([[相好]]業を修す)・位定(仏地に近い)・[[一生補処]](一生を終えての後、仏処を補う)・最[[後生]]([[成仏]]の身)の四種があるとされ、位次については異説が認められる。『[[菩薩]]本業経』下に「これを名づけて[[補処]]となす、十より十法を成じてより、[[現世]]に紹代無上正真の道を、最[[正覚]]をなして天下を度脱す」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V10.0450c.html 正蔵一〇・四五〇下])とあるのは今生において[[成仏]]する最[[後生]]の[[菩薩]]を指し、一方『<ruby>[[阿閦仏]]国経<rt>あしゅくぶっこくきょう</rt></ruby>』上「発意受慧品」に「一仏刹より復た一仏刹に遊び、即ち[[兜率天]]に住し、[[一生補処]]の法を得」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V11.0754c.html 正蔵一一・七五四下])とするのは[[兜率天]]に住した後、次生にて仏処を補う[[菩薩]]を指している。『[[観弥勒菩薩上生兜率天経]]』には[[兜率天]]に[[上生]]した[[弥勒]][[菩薩]]を[[補処]]の[[菩薩]]とし当[[来世]]に[[下生]]して[[成道]]するとするが、これは『[[阿閦仏]]国経』と同様の説である。『[[無量寿経]]』上の第二十二<ruby>必至[[補処]]<rt>ひっしふしょ</rt></ruby>願では「もし我れ仏を得たらんに、他方仏土の諸もろの[[菩薩]]衆、我が国に来生せば、究竟して必ず[[一生補処]]に至らん」(聖典一・二二七/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0008 浄全一・八])とあり、これについて[[道光]]は『[[無量寿経鈔]]』五において、[[極楽]]の[[菩薩]]は一地から一地へと階次を経るのではなく、[[補処]]の位に超えて至ることが誓われているとする([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J14_0097 浄全一四・九七下])。また一仏の[[浄土]]にどうして多くの[[補処]]がいるのかという問題について、一生とは時分遠近の区別についていうのではないとし、速やかに[[成仏]]するという点については、[[道理]]としては他方随縁の[[国土]] | + | [[菩薩の階位]]における最高位。迷いの生存として今生の一度だけ縛られている者、次の生存では仏になることができる位にある[[菩薩]]のこと。Ⓢekajāti-pratibaddhaⓉskye ba gcig gis thogs pa。一生<ruby>所繫<rt>しょけ</rt></ruby>とも訳されるほか、略して[[補処]]ともいう。[[玄一]]の『[[無量寿経]]記』上によれば、[[一生補処]]の[[菩薩]]には[[穢土]]の[[菩薩]]についていうと住定([[相好]]業を修す)・位定(仏地に近い)・[[一生補処]](一生を終えての後、仏処を補う)・最[[後生]]([[成仏]]の身)の四種があるとされ、位次については異説が認められる。『[[菩薩]]本業経』下に「これを名づけて[[補処]]となす、十より十法を成じてより、[[現世]]に紹代無上正真の道を、最[[正覚]]をなして天下を度脱す」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V10.0450c.html 正蔵一〇・四五〇下])とあるのは今生において[[成仏]]する最[[後生]]の[[菩薩]]を指し、一方『<ruby>[[阿閦仏]]国経<rt>あしゅくぶっこくきょう</rt></ruby>』上「発意受慧品」に「一仏刹より復た一仏刹に遊び、即ち[[兜率天]]に住し、[[一生補処]]の法を得」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V11.0754c.html 正蔵一一・七五四下])とするのは[[兜率天]]に住した後、次生にて仏処を補う[[菩薩]]を指している。『[[観弥勒菩薩上生兜率天経]]』には[[兜率天]]に[[上生]]した[[弥勒]][[菩薩]]を[[補処]]の[[菩薩]]とし当[[来世]]に[[下生]]して[[成道]]するとするが、これは『[[阿閦仏]]国経』と同様の説である。『[[無量寿経]]』上の第二十二<ruby>必至[[補処]]<rt>ひっしふしょ</rt></ruby>願では「もし我れ仏を得たらんに、他方仏土の諸もろの[[菩薩]]衆、我が国に来生せば、究竟して必ず[[一生補処]]に至らん」(聖典一・二二七/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0008 浄全一・八])とあり、これについて[[道光]]は『[[無量寿経鈔]]』五において、[[極楽]]の[[菩薩]]は一地から一地へと階次を経るのではなく、[[補処]]の位に超えて至ることが誓われているとする([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J14_0097 浄全一四・九七下])。また一仏の[[浄土]]にどうして多くの[[補処]]がいるのかという問題について、一生とは時分遠近の区別についていうのではないとし、速やかに[[成仏]]するという点については、[[道理]]としては他方随縁の[[国土]]に往ってのことであるとする([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J14_0098 同九八下]〜九下)。したがって[[道光]]も次生にて仏処を補うと解している。また『[[大阿弥陀経]]』『[[平等覚経]]』や『[[観世音菩薩]][[授記]]経』等では[[阿弥陀仏]]が[[入滅]]した後に[[観世音菩薩]]と大[[勢至菩薩]]とが相次いで[[補処]]することを説き、この二[[菩薩]]を[[補処]]の[[菩薩]]と位置づけている。[[観世音菩薩]]については『[[四十八巻伝]]』一三に「そもそも[[清水寺]]の霊像は、[[極楽浄土]]には、[[一生補処]]の薩埵」(聖典六・一四〇)とあり、『[[翼賛]]』一三では『[[群疑論]]』を引いて位次を「第十地ノ終リ、[[等覚]]ノ薩埵」とした上で、一生を「此ノ位仏ニ近フシテ」と釈し、[[補処]]を「[[ホトケ]][[教化]]ノ処ヲニギハシ給フヲ[[補処]]ト云ナリ」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J16_0225 浄全一六・二二五下])と右と同様に解している。この他『[[阿弥陀経]]』には「[[極楽]][[国土]]には、[[衆生]]生ずる者は、皆これ<ruby>[[阿鞞跋致]]<rt>あびばっち</rt></ruby>なり。その中に多く[[一生補処]]あり。その数甚だ多し。これ算数の能く知る所にあらず」(聖典一・三一八/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0053 浄全一・五三])として、[[極楽]]には[[一生補処]]の[[菩薩]]が多くいることを説いている。 |
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【執筆者:齊藤舜健】 | 【執筆者:齊藤舜健】 |
2018年9月17日 (月) 00:25時点における最新版
いっしょうふしょ/一生補処
菩薩の階位における最高位。迷いの生存として今生の一度だけ縛られている者、次の生存では仏になることができる位にある菩薩のこと。Ⓢekajāti-pratibaddhaⓉskye ba gcig gis thogs pa。一生所繫とも訳されるほか、略して補処ともいう。玄一の『無量寿経記』上によれば、一生補処の菩薩には穢土の菩薩についていうと住定(相好業を修す)・位定(仏地に近い)・一生補処(一生を終えての後、仏処を補う)・最後生(成仏の身)の四種があるとされ、位次については異説が認められる。『菩薩本業経』下に「これを名づけて補処となす、十より十法を成じてより、現世に紹代無上正真の道を、最正覚をなして天下を度脱す」(正蔵一〇・四五〇下)とあるのは今生において成仏する最後生の菩薩を指し、一方『阿閦仏国経』上「発意受慧品」に「一仏刹より復た一仏刹に遊び、即ち兜率天に住し、一生補処の法を得」(正蔵一一・七五四下)とするのは兜率天に住した後、次生にて仏処を補う菩薩を指している。『観弥勒菩薩上生兜率天経』には兜率天に上生した弥勒菩薩を補処の菩薩とし当来世に下生して成道するとするが、これは『阿閦仏国経』と同様の説である。『無量寿経』上の第二十二必至補処願では「もし我れ仏を得たらんに、他方仏土の諸もろの菩薩衆、我が国に来生せば、究竟して必ず一生補処に至らん」(聖典一・二二七/浄全一・八)とあり、これについて道光は『無量寿経鈔』五において、極楽の菩薩は一地から一地へと階次を経るのではなく、補処の位に超えて至ることが誓われているとする(浄全一四・九七下)。また一仏の浄土にどうして多くの補処がいるのかという問題について、一生とは時分遠近の区別についていうのではないとし、速やかに成仏するという点については、道理としては他方随縁の国土に往ってのことであるとする(同九八下〜九下)。したがって道光も次生にて仏処を補うと解している。また『大阿弥陀経』『平等覚経』や『観世音菩薩授記経』等では阿弥陀仏が入滅した後に観世音菩薩と大勢至菩薩とが相次いで補処することを説き、この二菩薩を補処の菩薩と位置づけている。観世音菩薩については『四十八巻伝』一三に「そもそも清水寺の霊像は、極楽浄土には、一生補処の薩埵」(聖典六・一四〇)とあり、『翼賛』一三では『群疑論』を引いて位次を「第十地ノ終リ、等覚ノ薩埵」とした上で、一生を「此ノ位仏ニ近フシテ」と釈し、補処を「ホトケ教化ノ処ヲニギハシ給フヲ補処ト云ナリ」(浄全一六・二二五下)と右と同様に解している。この他『阿弥陀経』には「極楽国土には、衆生生ずる者は、皆これ阿鞞跋致なり。その中に多く一生補処あり。その数甚だ多し。これ算数の能く知る所にあらず」(聖典一・三一八/浄全一・五三)として、極楽には一生補処の菩薩が多くいることを説いている。
【執筆者:齊藤舜健】