「化生」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年3月30日 (金) 06:23時点における最新版
けしょう/化生
有情の生まれる形式に四種(四生)ある中の一つで、母胎や卵といった他の何かに託して生じるのではなく、生まれ出るべき所に自らの業力によって忽然と出現する生まれ方。ⓈupapādukaⓉrdzus te skye ba。地獄、諸天、中有に生ずる際は化生である。この他、人については須弥山世界が生成される成劫の最初(劫初)に出現する者、畜生の中では竜と金翅鳥、餓鬼は全てあるいは一部が化生である。以上は三界内の化生である。一方、浄土への生まれ方も化生とされる場合がある。『放光般若経』一三では、菩薩が六波羅蜜を行ずるとき、四生を見て、自分が作仏した世界には、化生の者のみとしたい、という願を立てることをいう。阿弥陀仏の極楽世界への往生が化生であることについて、『大阿弥陀経』第二願には「諸の無央数の天人民蜎飛蠕動の類、我国に来生せん者は皆、七宝水池の蓮華の中に於いて化生し、長大にして皆、菩薩阿羅漢と作らんもの」(浄全一・一〇五下/正蔵一二・三〇一上~中)とあるが、『無量寿経』には願文中には明示されず、成就文で三輩段・上輩の往生について「すなわちかの仏に随って、その国に往生し、すなわち七宝華の中において、自然に化生す」(聖典一・二五〇/浄全一・一九)と、極楽の七宝の華の中に化生するとする。このことを蓮華化生という。聖冏によれば往生の生とは蓮華化生のことであるとする。『往生論』に「如来浄華の衆、正覚の華より化生す」(聖典一・三五七/浄全一・一九二)というのも同様の説である。この他、『無量寿経』下では往生に化生と胎生の二種類があることを「もし衆生あって、疑惑の心をもって、諸もろの功徳を修して、かの国に生ぜんと願ぜんに、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず。この諸もろの智において疑惑して信ぜず。しかれどもなお罪福を信ずるをもって、善本を修習して、その国に生ぜんと願ず。この諸もろの衆生、かの宮殿に生じて、寿、五百歳までに、常に仏を見たてまつらず。経法を聞きたてまつらず。菩薩・声聞聖衆を見たてまつらず。この故にかの国土において、これを胎生という。もし衆生あって、明らかに仏智乃至勝智を信じて、諸もろの功徳を作して、信心回向すれば、この諸もろの衆生、七宝の華の中において自然に化生して、跏趺して坐す」(聖典一・二八〇~一/浄全一・三三〜四)という。ここでいう胎生とは、四生の中の胎生とは異なり、母胎に託して生じるのではなく、七宝の宮殿に居る間、三宝にまみえることができないことを比喩的に胎生というものであり、『大阿弥陀経』下に「阿弥陀仏の国界の辺、自然七宝城の中を見て、心、便ち大に歓喜し、便ち其の城中に止まる。即ち七宝水池蓮華の中より化生して、則ち身を受け、自然に長大にして城中に在り」(浄全一・一二五上)というように、往生のありかたとしては蓮華化生なのである。
【資料】『俱舎論』八、『釈浄土二蔵義』一一
【執筆者:齊藤舜健】