「念仏と成仏」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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ねんぶつとじょうぶつ/念仏と成仏
念仏は法蔵菩薩が一切衆生を救済するために建てた本願の行法であるから、たとえ罪悪生死の凡夫であろうと、十声一声の口称念仏によって阿弥陀仏の浄土に往生することができる。これは成仏という果報に直接結び付くものではないが、ひとたび清浄無垢な浄土に往生すれば、煩悩は消滅してすみやかに修行がすすみ、覚りに向かって退転することがなくなる。『無量寿経』上には、法蔵菩薩の第十一住正定聚(不退転)の願があり、その願成就文には「それ衆生あって、かの国に生ずる者は、皆悉く正定の聚に住す。所以は何ん。かの仏国の中には、諸もろの邪聚および不定聚なし」(聖典一・二四九/浄全一・一九)と説かれているとおりである。また曇鸞は『往生論註』下において、法蔵菩薩の第十八・十一・二十二の三願を引き、浄土に往生して阿耨多羅三藐三菩提を成就する根拠を示している。したがって浄土宗における成仏の理解とは、念仏によって往生し、そこで不退転の位を獲得して後のことに属し、浄土に往生した者が、そこで修行を完成させることで仏果を証得することこそ大乗仏教の最終目的なのである。法然は『禅勝房に示されける御詞』で、「無量寿経には昔法蔵比丘と申す入道、四十八願を発して極楽浄土を建立して、真実に往生せんと思い衆生を迎えおきて、遂には仏になさせ給う也。仏に成らんと思わん人は、まず極楽を欣うべき也」(昭法全六九六)と述べているように、凡夫は此土入証得果することがかなわないので、ひとたび往生してから仏果を期すということである。ただし往生後どれだけの時間を経て成仏するのかについては説かれていない。『観経』の九品にはそれぞれ往生した後の授記(将来覚りを証す予言を授けられること)や階位などが説かれ、『阿弥陀経』の異訳である『称讃浄土仏摂受経』には、「もしかの土に生ずれば、かくのごとき無量功徳衆の荘厳するところの諸もろの大士等と同じく集会を一にし、かくのごとき無量の功徳衆の荘厳するところの清浄仏土の大乗法楽を受用し、常に退転することなく、無量の行願、念念に増進し、速やかに無上正等菩提を証するが故なり」(浄全一・一八七下~八上/正蔵一二・三四九下~五〇上)と説かれているだけである。
【参照項目】➡成仏
【執筆者:齊藤隆信】