「善光寺」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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火災、震災に遭うこと十数回といわれるが、戦国時代の弘治元年(一五五五)、甲斐国の武田信玄は越後国の上杉謙信との戦の際、[[本尊]]ほか[[什物]]、[[梵鐘]]などを甲斐に移し、大[[本願]]一〇七世(一説には三七世)鏡空が[[開山]]となって甲斐[[善光寺]]を開創し、[[本尊]]ほかを安置、保管した。武田氏滅亡後、織田信長、織田<ruby>信雄<rt>のぶかつ</rt></ruby>、[[徳川家康]]、豊臣秀吉などによって各地に遷座される中で[[善光寺]][[信仰]]が流布された。慶長三年(一五九八)信濃に帰座した。[[親鸞]]、[[一遍]]、[[良忠]]、[[証空]]といった[[浄土]]系[[僧侶]]をはじめ、源頼朝などに関わる多くの[[夢告]]や逸話が残るが、[[徳川家康]]の千石の[[寺領]]安堵により整備され門前町が発展した。 | 火災、震災に遭うこと十数回といわれるが、戦国時代の弘治元年(一五五五)、甲斐国の武田信玄は越後国の上杉謙信との戦の際、[[本尊]]ほか[[什物]]、[[梵鐘]]などを甲斐に移し、大[[本願]]一〇七世(一説には三七世)鏡空が[[開山]]となって甲斐[[善光寺]]を開創し、[[本尊]]ほかを安置、保管した。武田氏滅亡後、織田信長、織田<ruby>信雄<rt>のぶかつ</rt></ruby>、[[徳川家康]]、豊臣秀吉などによって各地に遷座される中で[[善光寺]][[信仰]]が流布された。慶長三年(一五九八)信濃に帰座した。[[親鸞]]、[[一遍]]、[[良忠]]、[[証空]]といった[[浄土]]系[[僧侶]]をはじめ、源頼朝などに関わる多くの[[夢告]]や逸話が残るが、[[徳川家康]]の千石の[[寺領]]安堵により整備され門前町が発展した。 |
2018年8月22日 (水) 06:39時点における最新版
ぜんこうじ/善光寺
一
北海道伊達市有珠町。大臼山道場院。北海道第一教区№六二。文化元年(一八〇四)荘海の開山。蝦夷三官寺の一つとして、北方防備政策とアイヌ人の実効支配を目的に幕命により創建された。明治維新後は一時衰微したが、道内巡教や本尊ならびに京都嵯峨清凉寺式釈迦如来の出開帳などで復興に努めた。当寺には寺宝も多く、前述の釈迦如来像や円空作聖観音像(共に道指定文化財)、道内最古の版木などがある。また境内地は国指定史跡となっている。
【資料】『大本山増上寺史』(大本山増上寺、一九九九)
【執筆者:𠮷水成正】
二
東京都港区北青山。南命山。東京教区№一二七。起立年次は不詳。当初谷中に信濃善光寺大本願の江戸宿寺として建立。慶安元年(一六四八)同所で朱印高五石が寄進。宝永二年(一七〇五)大本願一一三世心誉智善の代に青山百人町に替地となり、智善を中興開山とする。江戸時代は大本願兼帯所であった。浄土宗だが無本寺で、信濃善光寺が上野寛永寺直末寺であったため寛永寺支配であった。境内にあった稲荷・弁天・秋葉三社合祀の拝殿は現在表参道に秋葉神社として独立移転されている。
【資料】宇高良哲編『江戸浄土宗寺院寺誌史料集成』(大東出版社、一九七九)、『御府内寺社備考—天台宗—』(名著出版、一九七九)
【執筆者:中野真理子】
三
甲府市善光寺。定額山浄智院。山梨教区№一〇。開山は鏡空、開基は武田信玄。川中島合戦の折、武田信玄は信濃善光寺の罹災を恐れ、弘治元年(一五五五)秘仏本尊をはじめ、大本願三七世(一説には一〇七世)智冠鏡空以下僧徒堂衆に至るまで佐久郡禰津村に移し、永禄元年(一五五八)甲斐国板垣に寺域を定め、同八年金堂が落慶した。天正一〇年(一五八二)武田氏の滅亡により本尊は諸国を転々とし、慶長三年(一五九八)信濃へ帰仏した。甲府では新たに前立仏を本尊として供僧を組織再編し、残された諸仏寺宝類を護持し、本坊三院一五庵三坊を有する大寺院として浄土宗甲州触頭を務めた。
【参考】宇高良哲・吉原浩人『甲斐善光寺文書』(東洋文化出版、一九八六)、吉原浩人編『〈灯籠仏〉の研究』(至文堂、二〇〇〇)
【執筆者:吉原浩人】
四
大分県宇佐市下時枝。梵天山法性院。豊前善光寺、芝原善光寺と通称される。大分教区№六。信濃・甲斐の善光寺と並び日本三善光寺の一つ。天徳二年(九五八)に空也によって開創され、正暦四年(九九三)に一条天皇の永世天下護寺の勅願所となり、以後歴代の領主黒田、細川、小笠原らの帰依を受けた。建長二年(一二五〇)に多々良弘良により再建されたと伝えられる和唐様式の入り交じる本堂は国重要文化財に指定されており、秘仏一光三尊善光寺如来像をはじめとして県指定文化財も多数ある。また光明会の祖である山崎弁栄の墓所がある。
【参考】大分県総務部総務課編『大分県史 美術篇』(大分県、一九八一)
【執筆者:石上壽應】
五
長野市元善町。定額山。善光寺本坊である浄土宗大本山大本願とその塔頭一四坊、善光寺本坊である天台宗大本山大勧進とその塔頭二五院(ただしうち五院は近世まで妻戸と称する時宗寺院だった)をもって宗教法人善光寺を構成する単立寺院で、両宗交代で代表役員を務め護持運営する。善光寺住職は定員二名で両本坊住職が兼務する。
草創は奈良時代中期で本尊善光寺如来は、諸説あるが欽明天皇一三年(五五二)に、百済聖明王から献じられた三国(インド・朝鮮・日本)伝来の日本最初の仏。蘇我・物部両氏の崇仏廃仏争いの結果、物部氏が難波の堀江に投げ棄てたが、信濃国住人、麻績の本田(多)善光に逢い信濃国へ下り水内郡に安置されたといわれる。極楽への門としての信仰が浄土教の盛隆とともに高まり、建久六年(一一九五)には、定尊如来の分身仏が鋳移され(現在甲府善光寺の本尊で国重要文化財)、以来分身仏・分身寺の造立が盛んになり、その信仰が全国に流布、善光寺と称する一一九箇寺、二六二会員が善光寺会(平成六年〔一九九四〕設立)に属している。また、善光寺信仰の特徴の一つ、女人信仰は謡曲の柏崎・土車・石橋などの物語となっている。
火災、震災に遭うこと十数回といわれるが、戦国時代の弘治元年(一五五五)、甲斐国の武田信玄は越後国の上杉謙信との戦の際、本尊ほか什物、梵鐘などを甲斐に移し、大本願一〇七世(一説には三七世)鏡空が開山となって甲斐善光寺を開創し、本尊ほかを安置、保管した。武田氏滅亡後、織田信長、織田信雄、徳川家康、豊臣秀吉などによって各地に遷座される中で善光寺信仰が流布された。慶長三年(一五九八)信濃に帰座した。親鸞、一遍、良忠、証空といった浄土系僧侶をはじめ、源頼朝などに関わる多くの夢告や逸話が残るが、徳川家康の千石の寺領安堵により整備され門前町が発展した。
現本堂は松代藩真田幸道が普請奉行となって再建したもので、宝永四年(一七〇七)に完成した(国宝)。本堂最奥の内々陣の左側瑠璃壇上の「御宮殿」には一つの舟型光背に阿弥陀如来・観音・勢至両菩薩が立つ一光三尊阿弥陀如来(別称、善光寺式阿弥陀三尊像)の本尊が安置されているが、絶対秘仏でその身代わりが金銅仏の前立本尊ながら国重要文化財に指定され通常は善光寺宝庫に安置されている。この前立本尊の七年に一度のご開帳には多くの参拝者が訪れる。内々陣右側には本尊を難波から信濃まで運んだ本田善光、妻弥生、長男善佐の開山ご三卿像が安置されていて、内々陣の下には真闇の回廊があり、そこを巡る「戒壇巡り」で本尊如来像真下の「極楽の錠前」に触れると往生が決定するといわれている。また、内陣には如来越年正月行事を行う堂童子当役が正月一五日間別火潔斎して籠もる部屋がある。三門、経蔵は国重要文化財。
【参照項目】➡善光寺大本願
【執筆者:若麻績侑孝】