戒壇
提供: 新纂浄土宗大辞典
かいだん/戒壇
授戒の道場のこと。また僧伽に入ることを許可する具足戒を授ける作法を行うために特に設けられた小界のこと。この語は主として『五分律』で用いられ、『四分律』では「戒場」、『十誦律』では「界場」という訳語が用いられている。白二羯磨によって結界し、四方に杭を打ったり、結界石を積んだり、土を高く盛ってその存在を示した。戒壇を設けることは、実質的にはその宗門の独立を表す。道宣は『律相感通伝』で「初昔、宋の求那跋摩は蔡州において立壇、晋の竺法汰は瓦官寺において立壇、晋の支道林は石城・沃州において各一壇を立つ。晋の支法領は若耶謝敷隠処に立壇、竺道壱は洞庭山に立壇」(正蔵四五・八八一中)と述べ「通計するに戒壇は総じて三百余所あり」(同)と指摘している。『釈氏要覧』によれば戒壇での授戒は劉宋・元嘉一一年(四三四)に僧伽跋摩が南林寺に戒壇をたてて僧尼授戒したことに始まるとある。日本では、『日本書紀』によると善信尼が百済国に赴き受戒の法を求めたことが記されている。また鑑真は天平勝宝六年(七五四)四月、東大寺に入り勅命により大仏殿前に戒壇を設け、天皇、皇后、皇太子をはじめ四一〇人余りが受戒した。同七年に東大寺に道宣の『関中創立戒壇図経』に基づいて戒壇院が建設され、天平宝字五年(七六一、一説に同六年)には下野国薬師寺と筑前国観世音寺に戒壇が設けられた。その後、最澄が唐より帰国して戒壇独立運動を開始し、弘仁九年(八一八)五月、『天台法華宗年分学生式』六条を制定、次いで「八条式」「四条式」を制定上表して大乗戒独立の気運を促進し、比叡山に大乗戒壇を建設することを計画立てた。戒壇建立については南都の諸僧と論争しながらも準備を進めたが、目的を達成せず示寂、没後七日後(弘仁一三年〔八二二〕)に許可が下り、その後、門弟の円仁らの働きによって天長四年(八二七)に戒壇を落成した。比叡山の戒壇には釈迦、文殊、弥勒の像が安置されているが、これは釈尊より直に受戒する形式になっている。法然は久安三年(一一四七)一五歳のとき、比叡山のこの大乗戒壇院において黒谷の叡空より戒法を伝受した。
【資料】『醍醐本』、『九巻伝』一、『四十八巻伝』三
【参考】平川彰『原始仏教の研究』(春秋社、一九六四)、道端良秀『中国仏教史全集』七(書苑、一九八五)、恵谷隆戒『改訂円頓戒概論』(大東出版社、一九七九)
【執筆者:田中芳道】