恩
提供: 新纂浄土宗大辞典
おん/恩
ⓈkṛtaⓅkataの訳語で、本来は「なされた(こと・もの)」を意味するが、「誰かのために(好意的に)なされた行為」と解釈すれば、「恵み」や「援助」をも意味することになる。仏教の根本思想は縁起であり、すべては相依相待の関係にあることを説くから、自らの存在は自分以外の存在に支えられ、他者の恩を前提とするので、「恩」という考えは縁起の思想に内包されていると言えよう。パーリ聖典『増支部』は世間で得難き人として、「先に恩を施す人」と「恩を知り、恩を感ずる人」の二人を挙げるが、「知恩」はこの「恩を知ること(ⓈkṛtajñaⓅkataññu)」に由来する。以上は社会的倫理という観点から恩を見た場合であるが、仏教においても、後世においては四恩思想(例えば、父母・衆生・国王・三宝への恩)として、肯定的にとらえられることがある。ただし、出家者の倫理という観点から見た場合、少なくとも「恩愛(親子・夫婦の愛)」は、仏道修行の妨げとして断ち切られるべきものと位置づけられる。
一方、浄土教の場合、基本的に「恩」とは、仏(なかでも釈迦と弥陀)の「恩」「恩徳」であり、それに応えることが「仏恩報謝」となる。「自信偈」中の「報仏恩」や『一紙小消息』の「かのほとけの恩徳」などがまさにそれに当たる。それに対し、世俗的な恩については否定と肯定の両面が見られる。「浄土三部経」のうち、『無量寿経』の五悪段にのみ「恩」が現れるが、世俗的な恩は捨て去られるべきものとされる。法然も叡山登山の際に、世俗的恩愛を棄ててでも仏道を全うすることが真実の報恩になるということを説く「報恩偈」を示して、母を説得したと伝える。ただし、その一方で、『観経』や善導著作には「孝養父母」等といった父母への報恩が、肯定的な意味で説かれる。また法然『示或人詞』でも、父母の養育があったればこそ今現在、仏道修行できるのであるとして、父母の恩を説く。師への恩の場合もまた然りで、師への「知恩・報恩」は後に祖師信仰と結びついて強調されるようになる。さらには、江戸時代になると、儒教の影響や社会体制との関係から、たとえ浄土願生者であっても四恩報謝等は欠くべからざるものと説かれるようになってゆく。
【参考】仏教思想研究会編『仏教思想4 恩』(平楽寺書店、一九七九)、大谷旭雄「善導・法然における孝道論」(正大紀要七〇、一九八五)、長谷川匡俊『近世念仏者集団の行動と思想』(評論社、一九八〇)
【執筆者:平岡聡・安達俊英】