女人根欠不生
提供: 新纂浄土宗大辞典
にょにんこんけつふしょう/女人根欠不生
阿弥陀仏の西方浄土には女人と根欠(六根の状態が不完全な者)は生じないということ。世親『往生論』の国土荘厳・第十六大義門功徳成就の偈に「大乗善根の界は等しくして譏嫌の名も無し、女人と及び根欠と二乗との種は生ぜず」(浄全一・一九二/正蔵二六・二三一上)とある記述による。曇鸞『往生論註』には「仏、本と何故ぞ此の願を興したまえる。有る国土を見るに、仏・如来・賢聖等の衆有りと雖も、国濁るに由るが故に、一を分ちて三と説く。…是の故に願じて言わく、我が国土をして皆是れ大乗一味・平等一味ならしめ、根敗種子、畢竟じて生ぜず、女人残欠の名字も亦断たんと」(浄全一・二二八上/正蔵四〇・八三〇下)とあり、西方浄土は大乗一味・平等一味の世界であるから女人・根欠の名称が存在しないという。浄影寺慧遠『観経義疏』には、『往生論』の女人根欠不生説と『観経』の韋提希等の五〇〇人の侍女が往生したという記述との矛盾について「彼の国に生ずれば、浄報、欲を離るるが故に女人の身報無し。精上なるが故に根欠無し。若し此れを論ずれば、但だ善心のみ有りて一切を簡ばず」(浄全五・一九五下/正蔵三七・一九三中)とあり、西方浄土は善心のみあって女人と根欠は無いとする。すなわち、『往生論』の説はあくまで往生後の西方浄土の荘厳相を説いたもので、女人・根欠の往生の可否を論じたものではないとの会通である。善導は『観念法門』(浄全四・二三三下/正蔵四七・二七中)に『無量寿経』の第三十五願を解釈して、本願力による転女成男をもって女人往生を説いているとする。さらに『観経疏』玄義分に「女人および根欠の義は、かしこに無きが故に」(聖典二・一八七/浄全二・一二下)とあることから、女人と根欠の往生が不可能なのではなく、両者が浄土に存在しないことを「不生」ととらえている。良忠は『伝通記』玄義分記(浄全二・二一三下)において、善導が女人・根欠・二乗の三類はいずれも平等に往生できるとした点を強調しており、慧遠による女人・根欠の不生を会通しながらも二乗については往生できないとする主張を批判したものとみている。
【参考】金子寛哉『「釈浄土群疑論」の研究』(文化書院、二〇〇七)、柴田泰山『善導教学の研究』(山喜房仏書林、二〇〇六)
【執筆者:工藤量導】