仏教文学
提供: 新纂浄土宗大辞典
ぶっきょうぶんがく/仏教文学
仏典の中の文学的要素をもつ話柄、もしくは仏教を題材とする文学作品。仏教経典や論疏そのものに文学的価値があり全体を仏教文学として扱うべきであるという意見がある一方、文学作品の中に仏教が摂取されたもののみに対象を限るという考えもある。仏教は純粋な信仰の吐露で聖典への絶対帰依と煩悩の超克を重視すべきであると考えると、さまざまな喜びや葛藤などへの情趣の吐露である文学とは、相容れない関係となってしまう。しかし人間は、限定された宗教的環境にのみ生きるわけではなく、さまざまな場面で善業を積んだり悪業を重ねる二律背反的な生活を余儀なくされている。篤信者であるほど大きな矛盾に悩むことになるが、中国唐代の白居易は、それを文学的に解消することを目指した。晩年の白居易は仏教に傾倒して、『香山寺白氏洛中集記』において、今生に作成した狂言綺語の文筆を翻して、来世の讃仏乗の因・転法輪の縁としようと願った。平安時代中期には、慶滋保胤をはじめとする大学寮の学生がこれに大きく影響を受け、法要と詩会を結合させた勧学会を開筵した。煩瑣な規則に従って虚言を弄しなければならない文学が、往生極楽のための善根へ劇的に転化することができると解されたのである。讃仏の詩文を草することが成道の機縁となるという考えは、以後様々な創作の場面で意識されることになる。日本仏教文学研究は、大正一一年(一九二二)に野村八良が『鎌倉時代文学新論』において「仏教文学」の章を立て、『宝物集』『撰集抄』から仮名法語まで、幅広い範囲を論じたことが劃期となった。筑土鈴寛・永井義憲・多屋頼俊・小林智昭・間中冨士子・伊藤博之・今成元昭・山田昭全らが、この分野の研究を進展させて現在に至る。諸説を総合すると、仏教文学の対象とされるのは、以下のような分野が考えられよう。①経・律・論とその註疏。聖典として扱われるため純粋な文学として見られない場合もある。②説話・往生伝・高僧伝・寺社縁起。③作り物語・軍記・謡曲・御伽草子・仮名草子から近現代小説に至るまでの創作。④礼讃・和讃・漢詩・和歌・俳句などの韻文。⑤講式・願文・表白・諷誦・祭文などの唱導文。⑥随筆・紀行類。⑦祖師・高僧の法語類。①の仏教聖典中、例えば阿含経典類の偈頌、釈尊伝や仏前世の本生譚、『法華経』の比喩譚、『華厳経』の善財童子遍歴譚など文学的要素の強いものは、豊かな仏教文学と見なされよう。またあらゆるジャンルの文学に、仏教的要素が少しでもあれば、仏教文学として扱うこともできる。このように仏教文学の範囲や境界は曖昧で、厳密な線引きは困難である。作品における宗教的・精神的・芸術的価値判断は、研究者によりさまざまであり、仏教と文学の関係を専門に討究する学会である仏教文学会においても、統一見解は示されていない。さらに視野を広げれば、変文の講唱、変相図・高僧伝・寺社縁起の絵解き、平家琵琶、説経浄瑠璃、節談説教など、芸能と密接にかかわる分野も、仏教文学研究の対象とすべきである。
【参考】野村八良『鎌倉時代文学新論』(明治書院、一九二二)、家永三郎『日本思想史に於ける否定の論理の発達』(弘文堂、一九四〇)、永井義憲『日本仏教文学研究』(古典文庫、一九五七)、同『日本仏教文学研究』二(豊島書房、一九六七)、同『日本仏教文学研究』三(新典社、一九八〇)、唐木順三『無常』(筑摩書房、一九六四)、小林智昭『無常感の文学』(弘文堂、一九五九)、同『法語文学の世界』(笠間書院、一九七五)、西田正好『仏教と文学—中世日本の思想と古典』(桜楓社、一九六七)、桜井好朗『隠者の風貌—隠遁生活とその精神』(塙書房、一九六七)、竹岡勝也『王朝文化の残照』(角川書店、一九七一)、『筑土鈴寛著作集』全五巻(せりか書房、一九七六—七七)、今成元昭『仏教文学の世界』(日本放送出版協会、一九七八)、間中冨士子『国文学に摂取された仏教—上代・中古篇』(文一出版、一九七二)、同『仏教文学入門』(世界聖典刊行協会、一九八二)、大正大学国文学会編『文学と仏教—迷いと悟り』(教育出版センター、一九八〇)、大久保良順編『仏教文学を読む』(講談社、一九八六)、石田瑞麿『日本仏教思想研究』全五巻(法蔵館、一九八六—八七)、金岡秀友・柳川啓一監修『仏教文化事典』(佼成出版社、一九八九)、『多屋頼俊著作集』全五巻(法蔵館、一九九二)、今野達他編『岩波講座日本文学と仏教』全一〇巻(岩波書店、一九九三—九五)、伊藤博之他編『仏教文学講座』全九巻(勉誠社、一九九四—九六)、渡辺貞麿『仏教文学の周縁』(和泉書院、一九九四)、今成元昭編『仏教文学の構想』(新典社、一九九六)、黒田彰・黒田彰子『仏教文学概説』(和泉書院、二〇〇四)
【参照項目】➡浄土教文学
【執筆者:吉原浩人】