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阿弥陀寺

提供: 新纂浄土宗大辞典

あみだじ/阿弥陀寺

神奈川県足柄下郡箱根町塔ノ沢。阿育王山放光明院。神奈川教区№二三一。慶長九年(一六〇四)より弾誓たんぜいが塔の峯の岩屋に籠り念仏をしていた際、小田原城主大久保忠隣ただちか帰依し、山林二四町余の寄進を受けたことに由来し建立される。その後、増上寺末の捨世地となったことが一七世紀後半の増上寺三四世雲臥定書さだめがきによって知られ、一九世紀後半の廃仏毀釈期に至るまで多くの浄土律僧が住した。明治一六年(一八八三)静寛院和宮かずのみや位牌をまつる香華院となり、増上寺より黒本尊の御代仏の寄付を受け増上寺の永久別院となった。


【資料】『蓮門精舎旧詞』一、一八(続浄一八)、『増上寺寺院由緒書』上(『増上寺史料集』五)、『弾誓上人絵詞伝』下(浄全一七)


【参考】『箱根の文化財』一二(箱根町教育委員会、一九七七)


【参照項目】➡弾誓


【執筆者:石川琢道】


山梨県大月市猿橋町殿上。宝国山(『甲斐国志』では法国山)。山梨教区№九〇。慶長一三年(一六〇八)弾誓たんぜい開山開基は佐藤帯刀と伝える。弾誓は相模国から当地に入って教化し、自書の六字名号本尊とした。明暦頃(一六五五—一六五八)に本寺がなかったため西谷西凉寺を本寺とし、また寛政の初め頃、古知谷こちだに阿弥陀寺一〇世戒誉が訪れ、弾誓の生髪を植えた弾誓像を彫刻して安置した。これを植髪の像と号していた。


【資料】『浄土宗寺院由緒書』上(『増上寺史料集』五)、『甲斐国志』九〇(『甲斐叢書』一二)


【参照項目】➡弾誓


【執筆者:𠮷水成正】


長野県諏訪市大字上諏訪字唐沢からさわ。法国山。通称は唐沢山の阿弥陀寺。長野教区№一九五。元は諏訪の正願寺末にあたる。文禄四年(一五九五)、郷人河西浄西という念仏者が岩窟に十一面観音を祀って不断念仏道場としたことに始まり、四年後に幡随意の紹介を受けて諸国行脚途中の尾張出身の弾誓たんぜいが訪れ開山、五年間滞在した。以後その遺徳を偲んで多くの念仏行者が訪れ、徳本徳住・説音などが住職に名を連ねている。草創は慶長年間(一五九六—一六一五)と伝わる。平成五年(一九九三)四月に火災に見舞われ、現在は長野善光寺大本願の旧本堂を移築(同八年竣工)し本堂としている。


【資料】『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)


【参考】唐沢山阿弥陀寺パンフレット、『諏訪の名刹 四 浄土宗』(南信日日新聞社、一九八二)


【参照項目】➡弾誓


【執筆者:渋谷康悦】


津市岩田。来迎紫雲院。伊勢教区№六五。もと伊予国今治いまばりにあり、領主藤堂高虎が帰依していたが、慶長一三年(一六〇八)高虎の転封に伴い翌一四年現地に移転。開山は高虎の所替に従って現地に移った三誉吞山。藤堂高久の室である長寿院の寄進で、宝永年間(一七〇四—一七一一)頃に現今の堂宇が建立された。


【資料】『蓮門精舎旧詞』一四、『浄土宗大観』


【執筆者:竹内真道】


滋賀県栗東りっとう市東坂。金勝山(または富谷山)大通院。滋賀教区№三四一。応永二〇年(一四一三)隆尭りゅうぎょう開基。文明一七年(一四八五)当寺三世宗真そうしんが六角高頼の帰依を受け、草堂を拡張して阿弥陀寺とし、多数の末寺を擁するに至った。明応元年(一四九二)「阿弥陀寺清規しんぎ」を制定し、近江浄土宗教団の中心寺院として栄えた。天正六年(一五七八)織田信長の命により八世明感が安土浄厳院に寺宝とともに移住し、以後当寺は浄厳院の筆頭格の末寺となった。同九年火災にあったが、元和期(一六一五—一六二四)の初めに再建。明治二八年(一八九五)再度焼失したが、同四二年に現本堂が建立された。


【資料】『蓮門精舎旧詞』二四(続浄一八)、『浄土宗寺院由緒書』下(『増上寺史料集』七)、『湖東三僧伝』(浄全一七)


【参考】『近江栗太郡志』五(名著出版、一九七二)、『栗東の歴史』一(栗東町役場、一九八八)


【参照項目】➡阿弥陀寺清規浄厳院隆尭


【執筆者:曽田俊弘】


京都市上京区寺町今出川上ル鶴山町。蓮台山総見院。京都教区№二六。天文二四年(一五五五)生誉清玉を開山として芝薬師町(現在の堀川上立売通西辺)に建立。清玉は東大寺の大仏殿勧進職を務めた人で、室町幕府から無縁所として許可を得、永禄三年(一五六〇)には勅願所となった。織田信長の帰依を受けていた清玉は、天正一〇年(一五八二)の本能寺の変において亡くなった、信長・信忠をはじめ家臣百余名を当寺の墓地に葬った。信長の葬儀に際し、法事葬儀を勤めたいとの豊臣秀吉よりの申し出を断ったとの『由緒書』の記述がある。同一五年、豊臣秀吉の京の町整備により寺町の現在地に移った。その後延宝三年(一六七五)、天明八年(一七八八)と二度の大火にあい、現在の本堂は寛政年間(一七八九—一八〇一)に再建されたものである。阿弥陀寺洛陽四十八願寺の一つとして『京羽二重』に示されている。『阿弥陀寺過去帳』(本能寺変織田家過去帳)、『阿弥陀寺由緒書』をはじめ古文書も多く伝えられ、信長親子の木像と位牌、本能寺討死衆位牌とその墓、京都に弘道館を開いた儒学者の皆川淇園きえんの墓などがある。また塔頭たっちゅう住持であった蝶夢は松尾芭蕉のゆかりの俳僧として知られている。


【資料】『蓮門精舎旧詞』四五(続浄一九)、『浄土宗寺院由緒書』上(『増上寺史料集』五)、『京羽二重』(『新修京都叢書』二)


【執筆者:大澤亮我】


京都市左京区大原古知平町。光明山(一心帰命決定光明山)法国院。通称、古知谷こちだにとして親しまれる。京都教区№七二。慶長一四年(一六〇九)弾誓たんぜいが、九歳で出家して以来美濃から始めた二十数年の修行諸国行脚の後、最後の修行の地である如法念仏道場として一宇を建立したことを開基とする。同一八年六二歳で没した弾誓の遺骸は石棺に納められ、弾誓上人石廟に仏として安置されたといわれる。本堂には弾誓在世中に人間の理想像を求め自作植髪した本尊が、阿弥陀如来座像(国重要文化財)と共に安置される。山門脇の石標には弾誓仏一流本山とあり、弾誓をしのぶ毎年の開山忌には多くの信者でにぎわう。寺域には禅公窟ぜんこうくつと呼ばれている石窟や自然石仏など数多く点在。また樹齢七六〇年余といわれる天然記念物「古知谷カエデ」が参道を飾り、洛北の紅葉の名所として有名である。研修道場としてもひろく利用されている。


【資料】『浄土宗寺院由緒書』上(『増上寺史料集』五)


【参照項目】➡弾誓


【執筆者:上田千年】


神戸市中央区脇浜町。栽松山。兵庫教区№三八。円光大師御遺跡四十八所の番外札所。法然帰依した法入房の遺跡と伝える。寺伝によると、法然が讃岐から帰洛の途、神戸の報恩寺に逗留の間、脇浜に住む富(留)松右衛門は毎日参詣して教えを受け、弟子となって法入房と名づけられた。法然は神戸を旅立つとき、法入房の家に立ち寄り、集まる人々を念仏教化し、後に「法然松」と呼称される三株一根の小松を浜辺にえて、三株を三心に譬え、三心もひたすら念仏を称える中にあれば、この松のすがたと相応すると教示したという。その後、法入房は別に草庵を結び、専修念仏を怠らず宝治二年(一二四八)に往生の素懐を遂げた。この草庵が当寺のはじまりとされる。『摂津名所図会』にはこの「法然松」が描かれている。


【資料】『蓮門精舎旧詞』一〇(続浄一八)、『浄土宗寺院由緒書』上(『増上寺史料集』五)、名村愚仙『円光大師御遺跡四十八所口称一行巡拝記』、『摂津名所図会』七(『版本地誌大系』一〇、臨川書店、一九九六)


【参考】浄宗会編『円光大師法然上人御霊跡巡拝の栞』(知恩院、一九九六)


【執筆者:山本博子】


熊本市細工町。大宝山来迎院。熊本教区№二。寺伝によれば、もと熊本市春日、万日山まんにちやまにあり、大宝年間(七〇一—七〇四)行基が創建。その後衰退して寛喜年間(一二二九—一二三二)聖光弟子蓮阿により浄土宗寺院として再興。天正年間(一五七三—一五九二)白川あたりに移り、慶長六年(一六〇一)勢誉代に現在地に移転。移転のとき、万日山に残った寺を別院来迎院とした。幕末から明治期の活人形いきにんぎょう師松本喜三郎作の聖観音像を安置する。


【資料】『蓮門精舎旧詞』三九(続浄一九)、『浄土宗大観』


【執筆者:竹内真道】