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浄厳院

提供: 新纂浄土宗大辞典

じょうごんいん/浄厳院

滋賀県近江八幡市安土町慈恩寺。金勝山こんぜさん。滋賀教区№一六一。もとは隆尭が金勝山中に建立した浄厳坊を、天正五年(一五七七)、織田信長が安土城下に強制移転させた(浄厳院文書)。その地は佐々木六角氏の菩提寺、慈恩寺の故地であった。当時の住職浄厳坊八世応誉明感。信長は、蒲生郡多賀村の天台宗興隆寺にあった弥勒堂を移転させて本堂(国重要文化財)とし、丈六の本尊阿弥陀如来(国重要文化財)は二階堂(現在地不明)にあったものを移転した。楼門(国重要文化財)は解体修理の結果、移築されたものではなく、慈恩寺の建物であったことがわかった。その他多数の文化財が伝わる。江戸時代には近江浄土宗寺院の中心寺院であり、元禄六年(一六九三)幕府に提出した由緒改帳によれば、近江・伊賀両国に直末一八二箇寺、又末を合わせると、二八四箇寺の本寺であった。その中でも、甲賀郡滝称名寺・栗太郡金勝阿弥陀寺・野洲郡永原常念寺・神崎郡下野弘誓寺は、それぞれ一〇箇寺以上の又末寺を抱える浄厳院の中心的な末寺であった。安土宗論の舞台となったことでも有名で、勝利を祝して称えられたという「かちどき念仏」が伝わる。


【参考】『摠見寺文書目録2・浄厳院文書目録』(滋賀県教育委員会、一九九五)、『隆尭法印と阿弥陀寺・浄厳院』(栗東歴史民俗博物館、一九九一)


【参照項目】➡安土問答楷定念仏


【執筆者:伊藤真昭】