浄運寺
提供: 新纂浄土宗大辞典
じょううんじ/浄運寺
一
群馬県桐生市本町。田中山栄照院。群馬教区№五九。太田大光院末。開基は、安土宗論で活躍した玉念(—一五八六)。玉念が永禄元年(一五五八)広沢村(桐生市広沢町)に哀愍寺を建立したことにはじまる。天正七年(一五七九)安土宗論のため玉念は哀愍寺を聞岌(一五三九—一六二八)へ譲与し、その後、聞岌は哀愍寺を新宿村(桐生市新宿)へ移転、名称を浄運寺と改める。現在の場所へは桐生新町地割りのため慶長一〇年(一六〇五)に移転した。同寺には『安土宗論記録』、伝源信筆三尊画などの什物が残る。
【資料】『新田大光院志』(浄全二〇)、『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)
【執筆者:神宮良弘】
二
兵庫県たつの市御津町室津。清凉山。兵庫教区№一六六。新撰元祖大師二十五霊場第三番。法然が四国配流の途次、室の泊で遊女を教化した遺跡とされる。朝日山山麓に信寂が開基した西方寺を当地に移し、慶長年間(一五九六—一六一五)中興円誉団哲のときに寺号を変更して知恩院の末寺となる。本尊阿弥陀如来立像は快慶の作風を伝える鎌倉前期の作とされ、法然上人坐像は木造の頭部を法然が刻み、塑造の体部は法然の教化を受けた遊女友君が作ったと伝える(『円光大師所縁御影略縁起』)。寺伝で友君の墓と伝える裏門前にある板碑は、暦応二年(一三三九)妙心尼一周忌供養塔である。
【資料】『四十八巻伝』三四、『蓮門精舎旧詞』三一(続浄一九)、『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)、『播州室津追考略記』『播陽揖保郡志』(『播陽万宝智恵袋』上下、臨川書店、一九八八)、『御津町史』四(御津町、一九九九)
【参照項目】➡室の泊
【執筆者:山本博子】