未発心往生
提供: 新纂浄土宗大辞典
みほっしんおうじょう/未発心往生
菩提心をおこさなくても往生が可能であるということ。発心とは発菩提心をいう。聖道門においては仏果を得るためには仏道修行のはじめとして必ず菩提心をおこさなければならないとし、浄土教諸師の多くも『無量寿経』三輩段の上輩・中輩・下輩のいずれにも無上菩提の心をおこすべきことが記されていることから、往生浄土のためにも菩提心をおこす必要を説いている。善導においても著作中に「同じく菩提心を発して、安楽国に往生せん」(聖典二・一六一/浄全二・一下)など同類の説示が散見される。しかし『信空上人伝説の詞』には法然の説示として「浄土の人師多しといえどもみな菩提心を勧めて観察を正とす。ただ善導一師のみ菩提心なくして観察をもて称名の助業と判ず」(聖典四・四七八/昭法全六六九)とあり、また『選択集』三においても往生行としての菩提心を廃捨し(聖典三・一一四~七)、菩提心をおこさなくても、阿弥陀仏の本願である称名念仏によって往生できることを示している。明恵はこの点をとくに非難の対象としているが、良忠は『伝通記』において「然るに浄土門の菩提心とは、願を此の土に発し、行を彼土に修す。故に願有りて行無し。…若し聖道門の菩提心とは、願を此土に発し、即ち其の行を修す。故に願行具足せり」(浄全二・二八二上~下)として、浄土門の菩提心と聖道門の菩提心があるとして区別している。
【資料】『伝通記』、『東宗要』
【参考】石井教道『選択集全講』(平楽寺書店、一九五九)
【執筆者:沼倉雄人】