三不遠
提供: 新纂浄土宗大辞典
さんふおん/三不遠
阿弥陀仏の浄土はこの現実の世界(娑婆)から遠くないことを示す三つの説。①分斉不遠、②往生不遠(仏力不遠)、③来現不遠。『無量寿経』『阿弥陀経』には、阿弥陀仏の浄土は西方十万億の仏土を過ぎたかなたにあると説き、『観経』には「ここを去ること遠からず」(聖典一・二九一/浄全一・三九)と説いている。善導は『観経疏』序分義において『観経』の「遠からず(不遠)」について、三義をもって説明している。すなわち「一には分斉遠からず、これより十万億刹を超過すれば、すなわちこれ弥陀の国なることを明す。二には道里遥かなりといえども、去る時一念にすなわち到ることを明す。三には韋提等および未来有縁の衆生、注心観念すれば、定境相応して、行人自然に常に見ることを明す」(聖典二・二二六~七/浄全二・二九上~下)というのがそれである。この三義について聖聡『往生論註記見聞』は「光明大師は観経の去此不遠の文に対して、三不遠の会釈を立つ。いわゆる一には分斉不遠、二には来現不遠、三には仏力不遠なり」(浄全一・三八二上)と述べている。義山『観無量寿経随聞講録』上(浄全一四・五六三)によると①分斉不遠とは、この現実の世界(此界・娑婆)から十万億の仏土を過ぎたら阿弥陀仏の浄土は存在すること(無量と較べれば遠くないということ)。②往生不遠(仏力不遠)とは、道のりからは十万億仏土は遥遠であるが、往生する時は一念・須臾・弾指(一瞬)のあいだに浄土に到ることができること。③来現不遠とは、有縁の衆生がこころを注いで観念すれば、仏力によって自然に仏の世界をみることができること、と説明している。なお、懐感は『群疑論』六(浄全六・八三上~下)において、善導の三不遠を広く十義として、次の十不遠の釈義を示している。①仏力不遠—仏力を以ての故にまさに彼を見ることを得べし。②方便不遠—異の方便あって汝をして見ること得せしむ。③応現不遠—阿弥陀仏空中に住立したまう。④自心不遠—是心作仏・是心是仏。⑤守護不遠—常にかの行人の所に来至したまう。⑥有縁不遠—有縁の衆生はみなことごとく見ることを得。⑦本願不遠—宿願力の故に憶想ある者かならず成就することを得。⑧来迎不遠—諸の化仏とともに行人を来迎したもう。⑨往生不遠—弾指の頃のごとくにすなわち彼の国に生ず。⑩不放逸不遠—放逸のものは仏および仏弟子に近づくことを得といえどもなお名づけて遠とす。今ただよく専心にして放逸を行ぜざるをすなわち仏に近づくと名づく、遠と名づけざるなり。
【執筆者:髙橋弘次】