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浄土院

提供: 新纂浄土宗大辞典

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じょうどいん/浄土院

隋代から唐代にかけて中国仏教寺院内に建立された阿弥陀仏信仰専門の道場のこと。浄土院を中心として様々な浄土教儀礼が僧俗合同で実施されていたと考えられる。具体的には長安の薦福寺(『歴代名画記』三)、大興善寺(『不空表制集』二)、興唐寺(円照『貞元続開元釈教録』中および『歴代名画記』三)、資聖寺(『寺塔記』下および『長安志』八)、太原の祟福寺(『宋高僧伝』二六「懐玉伝」)、長安の温国寺(円照『貞元続開元釈教録』中および『歴代名画記』三および『両京新記』)、実際寺(『大唐実際寺故寺主懐惲奉勅贈隆闡法師碑銘並序』)、光明寺(『歴代名画記』三)、章敬寺(法照浄土五会念仏略法事儀讃』)、永州の龍興寺(柳宗元『永州龍興寺浄土院記』)などに浄土院の存在を見ることができる。また『歴代名画記』を通じて、浄土院の建物や外壁には呉道玄や尹琳らが地獄変や西方変を描いていたことが分かる。


【執筆者:柴田泰山】


京都市左京区銀閣寺町。清泰山。通称大文字寺。京都教区№五一。五山送り火の一つ、大文字送り火を管理していることで有名。開山は、天台宗座主二五世の明救みょうぐと伝えられるが、その前から浄土寺という寺があって、彼は中興だとする説もある。のち、文明一四年(一四八二)に移転し、堂宇一宇のみ残り、のち火災で本尊のみ残る。それを、泰誉浄久が復座し、天台宗から浄土宗改宗し、浄土寺から浄土院とした。享保一七年(一七三二)、随誉が再興したという。


【執筆者:角野玄樹】


京都市上京区今出川通千本西入南上善寺町。京都教区№二一五。起立は元和二年(一六一六)、開基は本誉宗印。当初は般舟院の隠居所であったという。天正一五年(一五八七)、豊臣秀吉が北野の茶会に行く途中、本寺に立ち寄り、茶を所望したが、住職は自らの茶道の未熟さを恥ずかしく思い、白湯ばかりを出したことから、「湯たく山茶くれん寺」と呼ばれるようになった。


【資料】『蓮門精舎旧詞』四四(続浄一九)


【執筆者:角野玄樹】


京都府宇治市宇治蓮華。京都教区№四四六。三条西実隆の息子、城誉栄久が、平等院修繕のため近衛家に推され院内に開創した寺院。養林庵、智学庵等浄土宗系の八子院が建立され平等院の運営に関係し、江戸期は平等院奥院もしくは浄閣と呼ばれたが、明治八年(一八七五)その中心であった浄土院子院を統合して一箇寺とした。江戸期の寺社奉行裁定に則った平等院則をもとに昭和三二年(一九五七)以降、浄土浄土院住職と天台系最勝院住職との平等院住職制が現在まで続く。文化財も多く、慶長三年(一五九八)木食応其もくじきおうごが豊臣秀吉より平等院修理を依頼され米五〇俵を浄土系玄誉に禄し(『旧記』)、しずたけの勝利には浄土院灯籠を寄進している。元弘元年(一三三一)一〇月、元弘の変による笠置落ちの際、後醍醐天皇が三種の神器を奉じて滞在した大書院(『太平記』)には、蘭皐斎玉宝による唐獅子水墨画が壁面に保存される。国重要文化財の養林庵は、慶長六年(一六〇一)加伝が伏見城より移築したものと伝えられる。細川三斎作庭のかぎ型の枯山水平庭(府指定名勝庭園)、伝源頼政筆『和漢朗詠集巻下断簡(平等院切)』(府文化財)ほかが残る。


【参照項目】➡栄久


【執筆者:神居文彰】