興律派
提供: 新纂浄土宗大辞典
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こうりつは/興律派
江戸中期に興起した、持律を旨とする浄土宗の一派。天台宗の安楽律や日蓮宗の正法律と同じように、浄土宗においても寺院や僧侶の世俗化を憂いた僧らによって、戒律遵守の規律のもとに念仏勧進が行われるようになる。その風儀を興律派と呼び、また浄土律ともいう。興律派の始まりはおよそ二流あり、霊潭󠄂の流れをくむものと、敬首の流れをくむものである。霊潭󠄂は浄土宗最初の律院として洛東に聖臨庵を開いて律制を定め、持戒念仏の道場とした。この霊潭󠄂の弟子には、湛慧、黙龍、徳巌、義灯がおり、湛慧は洛西長時院、黙龍は備後尾道安養軒、徳巌は三河昌光寺、義灯は尾張円成寺のそれぞれの律院で持戒念仏を勧進した。義灯の門下には、普寂、可円がいる。敬首は、武蔵花俣の正受院を律院と定めたが、この正受院の律制が本宗律院における規則の起源となっている。ほか、奥羽に浄土律を興起した不能がいる。また、同時代に興隆した捨世派との関係は深く、関通は尾張円成寺を律院と定め義灯を住持させ、無能も不能によって律院と定められた奥羽伊達無能寺の開山となっている。捨世派の厳粛な風儀を、持律という、より具体的な姿で示したのが興律派であり、捨世派が祖風の復興とすれば、興律派は仏制の興隆といえる。彼ら律僧の僧風は厳粛であり、金銭を扱わないこと、女人と直接物品の授受を行わないこと、官寺の住職とならないこと、印鑑を用いないこと等が厳しく守られていた。こうした細かな規則を定め、戒律を守ることを第一とし、理論よりも実践を重んじるのが律院での生活形態であり、このように厳しい律制の下に生活する律僧らは民衆から尊ばれた。しかしながら、彼らの持律は南都系の大乗戒に基づくものであり、浄土宗所伝の円頓戒を用いなかったため、批判される一面も見られた。また厳格な規則を遵守できる者が少なく、結果的に律院としての形態は長くは続かなかった。
【参考】『浄土宗史』(浄全二〇・六一四下~二〇上)
【執筆者:兼岩和広】