学天
提供: 新纂浄土宗大辞典
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がくてん/学天
一
享保一二年(一七二七)—寛政元年(一七八九)六月二三日。咸蓮社嘆誉光阿。字は除雲。姓は細谷。讃岐国高松の人。同国香西村国清寺の学麟に師事して得度。のちに増上寺の了風の弟子となる。師が滅すまで一五年間修学したのち、京都今出川常林寺に住した。そして霊威の伝承の本尊がある摂津国有馬の法性寺に移転して二五世となった。
【資料】『新撰往生伝』五(浄全一七)
【執筆者:田中芳道】
二
文化元年(一八〇四)—明治三年(一八七〇)一一月二六日。実蓮社名誉祐阿。字は因順。知恩院七三世、鎌倉光明寺九五世、瓜連常福寺六七世、小金東漸寺四六世。紀伊国那賀郡粉河村(和歌山県紀の川市)に生まれる。父は岩崎吉兵衛。七歳で同国小倉村光恩寺に入り得度し、一五歳で増上寺実巌の学寮に入る。五八世舜従より五重、実誉顕了より宗戒両脈、六四世密賢より璽書を相承。弘化元年(一八四四)増上寺学頭に進み、同三年四月東漸寺に、安政二年(一八五五)三月常福寺に、万延二年(一八六一)正月光明寺に住し、同年七月台命により知恩院住職を拝命、同年八月大僧正に任官した。明治維新では、明治天皇の東京行幸に際し御用金五万両を上納し、知恩院門跡尊秀法親王が復飾し華頂宮となり和学御用掛に任命されると、増上寺明賢と共に献本を行うなど時勢の難局に対処。また学業振興のため入信院に勧学所を設置し、これまで前例のない近畿地方の末寺を巡教。世寿六七歳。
【資料】『略伝集』(浄全一八)、『浄源脈譜』『華頂誌要』(共に浄全一九)
【参考】『知恩院史』(知恩院、一九三七)、『学天大僧正道蹟』(岩崎徹治郎、一九一九)
【執筆者:石川達也】