念仏三昧
提供: 新纂浄土宗大辞典
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ねんぶつざんまい/念仏三昧
一
心をととのえ仏を念ずることに専心すること。仏の姿形や光明、功徳荘厳などを憶念して専注する状態になる方法、またその状態になること。浄土教では、一心に南無阿弥陀仏と称えること。
[大乗経典と念仏三昧]
三昧による観仏、すなわち精神集中の境地に達することにより仏を観ること、あるいは仏にまみえることは、初期大乗経典の『般舟三昧経』に見出せる。『同』行品では七日七夜のあいだ阿弥陀仏を憶念することで、阿弥陀仏を観ることができると説かれている。『観仏三昧海経』九では念仏三昧、観仏三昧、現前三昧とのかかわりを示している。また『大智度論』二八には、諸々の三昧に声聞法中の三昧(空・無相・無願)と、大乗法中の三昧(菩薩の三昧)のあることを述べ、大乗の菩薩が修すべき三昧としての念仏三昧を述べている。『華厳経』賢首品には「念仏三昧は必ず見仏し、命終ののち仏前に生ず、彼の臨終を見ては念仏を勧め、又尊像を示して瞻敬せしめよ」(正蔵九・四三七中)といい、『同』金剛幢菩薩十回向品に「正しく三世一切の諸仏を念ぜば、念仏三昧悉く具足することを得ん」(正蔵九・五二四下)といい、さらに『同』入法界品には、功徳雲比丘が善財童子の問いに対し、菩薩の行法として円満普照三昧門、一切衆生遠離顚倒念仏三昧門などの二十一種念仏三昧門を説いている。これらによれば念仏三昧を行えば見仏し、命終の後には浄土に往生できるとされる。『観経』第九観には「諸仏を見たてまつるをもっての故に、念仏三昧となづく」(聖典一・三〇〇~一/浄全一・四四)と説き、念仏三昧は十方のあらゆる仏を見ることとされる。一般に大乗仏教における念仏三昧は、大乗の菩薩が般若の智慧を得るために行う六波羅蜜の中の禅波羅蜜の一つとして説かれたものである。
[中国仏教における念仏三昧]
廬山慧遠『念仏三昧詩集の序』には「念仏三昧とは何ん。思専らにして寂想なるの謂なり。…諸の三昧其の名甚だ衆し、功高くして進み易きは念仏を先とす」(正蔵四七・一六五下~六上)と述べ、自ら同行一二三人と共に般若台精舎の阿弥陀仏像前においてこの念仏三昧を実践して見仏を願い、臨終に阿弥陀仏の来迎を得て往生浄土を期待した。善導は『観経疏』玄義分で「今、この観経は、すなわち観仏三昧を以て宗とす。また念仏三昧を以て宗とす」(聖典二・一六六/浄全二・三)といい、『観念法門』で「観経に依って観仏三昧の法を明かす」(浄全四・二二二上)と述べ、また「般舟経によって念仏三昧の法を明かす」(同)と述べている。さらに善導『般舟讃』の具名は『依観経等明般舟三昧行道往生讃』ともいう。これらの点から善導が『観経』の十六観によって般舟三昧(見仏の法)を実践し、この般舟三昧行を成就するために称名念仏を実践したことが解る。すなわち、善導は本来大乗の菩薩行としてあった念仏三昧を、凡夫であっても阿弥陀仏の本願に誓われた念仏によれば成就できると確信したことを示すのである。したがって善導のいう念仏三昧とは、観仏三昧に対立するものではなく、むしろそれを成就するためのものである。
[浄土宗における念仏三昧]
法然が『選択集』第三章で念声是一を説き、また『十二問答』に「口にて称うるも名号、心にて念ずるも名号なれば、いずれも往生の業とはなるべし。ただし仏の本願は称名の願なるが故に声を立てて称うベきなり」(聖典四・四三五/昭法全六三五)と述べているのも、善導の念仏三昧の意趣を受け、さらにそれを布衍したものである。聖光は『智度論』などにより念仏三昧の元意をさぐり、不離仏値遇仏の意味であるとし、なお一層人々の日常生活の場面でその意義を広く考えている。後に浄土門の諸流ではこの三昧(定)の意味をめぐって種々に論議されているが、それらの説は皆善導の意を踏まえた上での展開と考えられる。
【資料】『安楽集』、『群疑論』七、『徹選択集』、『六要抄』、『教相十八通』
【参考】望月信亨『略述浄土教理史』(日本図書センター、一九七七)、服部英淳『浄土教思想論』(山喜房仏書林、一九七四)、岸覚勇「善導流浄土教に於ける観仏と見仏」(『日華仏教研究会年報』四、一九四〇)、金子寛哉『「釈浄土群疑論」の研究』(大正大学出版会、二〇〇六)
【執筆者:金子寛哉】
二
一巻。清・瑞聖歎著。成立年次不詳。念仏三昧の正否について述べたもの。本論は千字に足らない短篇である。本篇は『阿弥陀経』を中心にして、念仏三昧による極楽往生を説き、『阿弥陀経』の本意は、一切の衆生が無我の道理を体得できないため、あえて法界全体をあげて、衆生は本来極楽にいると説くことにあるとしている。特に九品化生の下品下生も阿弥陀仏の名を唱えれば、蓮華のなかで成仏すると解釈している。また、念仏三昧と妄心念仏の相違にも言及し、先に念仏によって成仏して、後に仏を見るというのが正しい順序だという。
【所収】続蔵六二
【執筆者:陳継東】