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来迎

提供: 新纂浄土宗大辞典

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らいこう/来迎

念仏行者の臨終に際し、阿弥陀仏聖衆とともに迎えに来ることをいう。「らいごう」と読む宗派もあるが、浄土宗では「らいこう」と読む。阿弥陀仏来迎四十八願中の第十九来迎引接願に基づくものである。来迎の説示は『無量寿経』下の三輩、『観経』の九品、『阿弥陀経』にある。『阿弥陀経』には、念仏衆生の命終について「その人命終の時に臨んで、阿弥陀仏もろもろの聖衆とともに、現にその前にまします。この人終わる時、心顚倒てんどうせず、すなわち阿弥陀仏極楽国土往生することを得」(聖典一・三一八~九/浄全一・五四)と説かれている。善導は『往生礼讃』において「命終の時に臨んで、心顚倒せず、心錯乱しゃくらんせず、心失念せず。身心にもろもろの苦痛なく身心快楽けらくにして、禅定に入るがごとく、聖衆現前したまえ、仏の本願に乗じて、阿弥陀仏国に上品往生せしめたまえ」(浄全四・三六〇上)と述べ、阿弥陀仏来迎を願っている。法然は『逆修説法』一七日において来迎引接願を説明する中で「先ず臨終正念のために来迎したまえり。いわゆる疾苦身にせまりてまさに死なんと欲する時、必ず境界・自体・当生の三種の愛心起こるなり。しかるに阿弥陀如来光明を放ちて行者の前に現じたまう時、未曽有の事なる故に、帰敬の心の外には他念無し。しかれば三種愛心を亡ぼして更に起こること無し。かつはまた仏、行者に近づきたまいて加持護念したまうが故なり。称讃浄土経には慈悲加祐して心を乱らざらしめて、すでに命を捨ておわりて、即ち往生を得て不退転に住すと説き、阿弥陀経には阿弥陀仏、諸の聖衆とともに現にその前にまします、この人終る時、心顚倒せず、すなわち阿弥陀仏極楽国土往生することを得と説けり。令心不乱りょうしんふらん心不しんぷ顚倒とは、すなわち正念に住せしむるの義なり。しかれば臨終正念なるが故に来迎したまうにはあらず、来迎したまうが故に臨終正念なりという義明らかなり」(昭法全二三四)と述べ、衆生病苦の中で死に臨むときに、境界愛(家族財産等への執着)・自体愛(自分の身命への執着)・当生愛(死後どうなるのかという不安)の「三種の愛心」が起こるものの、阿弥陀仏来迎によって帰敬の心の外は起こらず、三種の愛心は亡ぼされ再び起こることはなく、衆生は「心不乱」と「心不顚倒」という正念の状態に入るとしている。さらに「然れば則ち来迎引接は、魔障を対治せんがためなり」(昭法全二三五)と述べ、阿弥陀仏来迎引接は魔障を滅し、正念に導き浄土往生させるためであることを明らかにしている。このように、法然は『称讃浄土経』と『阿弥陀経』の説示に基づき、それまでの正念来迎衆生が臨終時に正念に至ったならば来迎する)を否定し、来迎正念衆生正念に導くために来迎する)を明示している。さらに法然凡夫の現実を見据え、『往生浄土用心』において「ただし人の死の縁はねて思うにも叶いそうらわず。にわかに大路、径にて終る事もそうろう。また大小便痢のところにて死ぬる人もそうろう。前業逃れ難くて、太刀たち小刀かたなにて命を失い、火に焼け水に溺れて命を滅ぼす類多くそうらえば、さようにて死にそうろうとも、日ごろの念仏申して極楽へ参る心だにもそうろう人ならば、息の絶えん時に、阿弥陀、観音、勢至来たり迎えたまうべしと信じ思召すべきにてそうろうなり」(聖典四・五五六/昭法全五六四)と述べ、人の死の縁は思うようにならないものであるが、日頃念仏を称えていた者の最期には間違いなく、来迎があるとしている。法然門下においては、来迎をめぐって種々の異義が生じた。証空は平生に仏の来迎を証得することを即便往生とし、臨終に肉身を捨てて往生することを当得往生とした。親鸞は『末灯抄』において、来迎というのは諸行往生の者にあり、それは自力行者であるとする。真実の信心を得た者は、摂取不捨の故に正定聚の位に住するから、臨終を待つことも来迎を頼むことも必要ないという平生業成来迎を説いている。


【参照項目】➡来迎引接願来迎正念正念


【執筆者:曽根宣雄】