来迎正念
提供: 新纂浄土宗大辞典
らいこうしょうねん/来迎正念
念仏行者が阿弥陀仏の来迎によって、正念の境地に導かれること。法然は『浄土宗略抄』において、「仏の来迎したまう故は行者の臨終正念のためなり。それを心得ぬ人はみな我が臨終正念にて念仏申したらん折ぞ仏は迎えたまうべきとのみ心得たるは、仏の本願を信ぜず、経の文を心得ぬなり」(聖典四・三五八/昭法全五九六)と述べ、衆生が臨終に正念の境地に至ったならば来迎があるとする「正念来迎」の教えを否定し、来迎は臨終の衆生を正念に導くためであるとする「来迎正念」の教えを説いている。同様の説示は、『逆修説法』一七日にもみられ、『阿弥陀経』と『称讃浄土経』を経証としている。このことは、「来迎正念」の教えが仏説であることを示すものである。さらに『浄土宗略抄』には「ただの時よくよく申し置きたる念仏によりて必ず仏は来迎したまうなり。仏の来たりて現じたまえるを見て正念には住すと申すべきなり。それに前の念仏をば空しく思いなして由なき臨終正念をのみ祈る人の多くある、ゆゆしき僻胤の事なり」(聖典四・三五八/昭法全五九六)と述べ、平生の念仏によって来迎が実現し正念に導かれることを明らかにしている。
【参考】丸山博正「臨終と来迎—臨終行儀をめぐって—」(『仏教文化学会紀要』一、一九九二)、曽根宣雄「法然浄土教と臨終行儀」(『仏教論叢』四九、二〇〇五)、林田康順「法然における来迎思想の展開」(『鳳翔学叢』七、二〇一一)
【執筆者:曽根宣雄】