法界身
提供: 新纂浄土宗大辞典
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ほうかいしん/法界身
『観経』像想観に説かれる仏身のことで、化益の対象となる衆生界(法界)のどこにでも示現可能な三十二相八十随形好を具えた利他の身。「ほっかいしん」ともいう。『観経』に「諸仏如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想の中に入りたまう。この故に汝等、心に仏を想う時、この心すなわちこれ三十二相八十随形好なり」(聖典一・二九八/浄全一・四三)というのがそれである。浄影『観経義疏』(浄全五・一八六上/正蔵三七・一八〇上)や吉蔵『観経義疏』(浄全五・三四七下/正蔵三七・二四三下)、伝智顗『観経疏』(浄全五・二一二下/正蔵三七・一九二中)等、中国隋唐代に成立した『観経』の諸注釈書において法界身は法身と解釈されている。これに対して、善導は『観経疏』において「法界」を①仏心が遍満している②仏身が遍満している③仏には障礙がないという三義をもって理解した上で「〈法界〉と言うはこれ所化の境、すなわち、衆生界なり。〈身〉というはこれ能化の身、すなわち、諸仏の身なり」(聖典二・二六八/浄全二・四七上)と述べ、「所化の境(教化される側)=衆生界」と解釈し、「法界身」は法界に臨む「能化の身(教化する側)=諸仏の身」であるとした。すなわち、仏は無礙智をもってよく法界の衆生の心念を知り、仏を想う衆生の心に三十二相八十随形好を有する衆生化益の身である法界身をもって現ずるとしているのである。さらに、『観経疏』には「すでに、像を想えと言って三十二相を仮立せる者、真如法界の身、あに相有って縁ずべく、身有って取るべけんや。然るに法身は無色にして眼対を絶す。更に、類として方ぶべき無し。故に虚空を取って、以て法身の体に喩う」(聖典二・二六九/浄全二・四七下)と述べられている。すでに『観経』において釈尊が像を想えと言い、阿弥陀仏が仮に三十二相を立てることは、無色無相で虚空にも喩えられる真如法界身では衆生の眼根で認識できないことを善導は説いている。
【資料】法然『観経釈』(昭法全一〇二)、良忠『伝通記』(浄全二・三四三上~五上)
【参考】福𠩤隆善「仏と衆生—『観経』の〈是心〉釈をめぐって—」(『浄土宗学研究』七、一九七二)、服部英淳「指方立相論と本願称名念仏の意義」(『浄土教思想論』山喜房仏書林、一九七四)、柴田泰「中国浄土教と心の問題—『観経』〈是心作仏是心是仏〉理解—」(『仏教思想』九、平楽寺書店、一九八四)、
【参照項目】➡像想観、是心作仏是心是仏、指方立相、己心の弥陀・唯心の浄土、有相・無相
【執筆者:吉水岳彦】