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難行道・易行道

提供: 新纂浄土宗大辞典

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なんぎょうどう・いぎょうどう/難行道・易行道

阿弥陀仏本願力他力)による往生行易行道といい、それ以外の自力による行を難行道という。『十住毘婆沙論』「易行品」に基づき、曇鸞浄土教の立場から仏道修行を分類したもの。難易二道とも略す。『往生論註』上の冒頭に「謹んで案ずるに龍樹菩薩の十住毘婆沙に云わく、菩薩阿毘跋致あびばっちを求むるに二種の道あり。一には難行道、二には易行道なり。難行道とは謂く五濁の世、無仏の時において、阿毘跋致を求むるを難となす。この難に乃ち多途あり。ぼ五三を言いて以て義意を示さん。一には外道の相善菩薩の法を乱る。二には声聞自利大慈悲う。三には無顧の悪人、他の勝徳を破す。四には顚倒の善果、能く梵行を壊す。五には唯だこれ自力にして他力の持なし。かくのごとき等のこと目に触れて皆これなり。譬えば陸路の歩行ぶぎょうは則ち苦しきがごとし。易行道とは謂く、但だ信仏の因縁を以て浄土に生ぜんと願ずれば、仏の願力に乗じて便ち彼の清浄の土に往生することを得、仏力住持して即ち大乗正定のじゅに入る。正定とは即ちこれ阿毘跋致なり。譬えば水路の乗船は則ち楽しきがごとし」(浄全一・二一九上正蔵四〇・八二六上)とあるように、修行者が、煩悩にまみれ、仏のいない時代において、阿毘跋致(成仏)を獲得するのは、他力等によっていないために難しい。一方で、仏を信ずる因縁によって、阿弥陀仏本願力他力)に乗じて、その浄土往生することにより、その土において阿毘跋致(成仏)を獲得することが可能となる。このうち前者を難行道とし、「陸路の歩行」に譬え、自力による成仏の獲得を実現するのに対し、後者を易行道とし、「水路の乗船」に譬え、他力増上縁として往生後に成仏の獲得を実現する。この本願による往生成仏の獲得について曇鸞は、『無量寿経』第十八念仏往生願により往生し、第十一住正定聚願により成仏を獲得し、第二十二必至補処願によりその菩薩は最高位である一生補処の位に入ることができるとし、四十八願のなか、特にこの三願増上縁として重視している。なお、この難易二道について『十住毘婆沙論』「易行品」には「仏法無量の門有り。世間の道に難有り、易有り。陸道の歩行は則ち苦しく、水道の乗船は則ち楽しきがごとし。菩薩の道も亦た、かくのごとし。あるいは勤行精進する有り。あるいは信方便の易行を以て阿惟越致あゆいおっちに至る者有り」(正蔵二六・四一中)とあり、具体的に易行道の行法として、東方の善徳仏等の十方十仏、無量寿仏等の百七仏等の名を挙げて、それらの仏・菩薩の名を聞き、名を称し、憶念礼拝すべきことを説いている。このように『十住毘婆沙論』における難易二道は、行そのもの、すなわち行体としての難易としているのに対し、先述のとおり『往生論註』では、難行道煩悩にまみれ、仏のいない時代において成仏を求めるものであり、易行道阿弥陀仏という仏が存在し、その浄土をもって成仏を獲得するための実践の場としているということ、すなわち行縁としての難易としている点が大きく異なる。法然は『選択集』一において、「難行道とはすなわちこれ聖道門なり。易行道とは、すなわちこれ浄土門なり。難行・易行と、聖道浄土と、そのことばは異なりといえども、そのこころこれ同じ」(聖典三・一〇二/昭法全三一三)と述べ、難行道・易行道聖道門・浄土門は同義であるとする。


【参考】長谷岡一也『龍樹の浄土教思想—十住毘婆沙論に対する一試攷』(法蔵館、一九五七)、藤堂恭俊『無量寿経論註の研究』(仏教文化研究所、一九五八)


【参照項目】➡聖道門・浄土門阿鞞跋致


【執筆者:石川琢道】