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長安

提供: 新纂浄土宗大辞典

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ちょうあん/長安

中国陝西省・西安市の旧名。前漢がこの地を都として以来、前趙、前秦、後秦、西魏、北周がそれにならい、隋は漢の長安城の東南に新都を建設しここに移り、唐がそれを完成した。唐の長安城の外郭は文献では東西九・七キロ、南北八・二キロに及ぶ広大な規模で、城内は宮城、皇城を中心に百余の坊(一区画)に整然と区画されていた。最盛期は玄宗時代(八世紀前半)で人口一〇〇万に達した。唐末の戦乱で荒廃し、明代になって復興したのが現在の西安城であり、唐の外郭城と比べるとはるかに小さい。長安仏教が流布した年次は明確でないが、西晋時代、三世紀末に『正法華経』『光讃般若経』等多数の仏典を翻訳した竺法護が長安寺院を建立し多くの門人を指導した。その後、五胡十六国時代に前秦の首都となった長安道安が来て五重寺に住し、般若経研究と門人の指導に務めた。そして後秦時代、五世紀の初め、鳩摩羅什長安に来て『大品般若経』『妙法蓮華経』『阿弥陀経』『中論』等多数を訳経し、多数の門人を指導したため、長安般若系・龍樹系の大乗仏教の中心地となり、これが地方に伝播し、中国仏教発展の契機となった。仏教が最盛したのは唐代であり坊内には多くの寺院が存した。街西の延康坊にある西明寺には南山律宗を大成し、『続高僧伝』等の貴重な仏教史書を撰述した道宣が居住し、また日本仏教とも関係深く、入唐した永忠、空海が滞在した。街東の晋昌坊の青龍寺には恵果が住しており、入唐した空海はここで密教を受法し、円仁、円珍もここに滞在した。街東の南の進昌坊には大雁塔で知られる大慈恩寺があり、玄奘はここで将来の仏典を訳出した。街東の開化坊には小雁塔で知られる大薦福寺があり、華厳教学を大成した法蔵がこの寺で入寂し、インドから帰った義浄がここで訳経を行った。街東の靖善坊には大興善寺があり、不空はここで密教経典を翻訳した。曇鸞道綽念仏行を長安に流布させたのは善導である。善導は『続高僧伝』によると、懐遠坊の光明寺で念仏教化を行い、石碑文によると、大慈恩寺また皇城のすぐ南に位置する街西の太平坊の実際寺にも住した。街西の安定坊の千福寺は玄宗時代に法華道場として栄えるが、善導弟子懐感はここに住し『群疑論』を著した。『念仏三昧宝王論』を著作した飛錫もここで法華三昧修行した。


【資料】宋敏求『長安志』、徐松『唐両京坊城考』


【参考】足立喜六『長安史蹟の研究』(東洋文庫、一九三三)、平岡武夫『唐代の長安と洛陽』(同朋舎、一九五六)、塚本善隆『塚本善隆著作集』二(大東出版社、一九七四)、小野勝年『中国隋唐長安・寺院史料集成』(法蔵館、一九八九)


【執筆者:佐藤成順】