大念仏
提供: 新纂浄土宗大辞典
だいねんぶつ/大念仏
道俗の大衆が多数参加して念仏を合唱すること。大衆が高唱念仏するためには、その念仏に一定のテンポとリズムの音楽的要素を必須条件とする。日本で詠唱歌讃の音楽的念仏を始めたのは、日本声明の中興の祖であり、融通念仏を始めた良忍である。彼は円仁以来の叡山の声明に通暁したばかりでなく、あらゆる音曲に精通しこれを統一し、また宮中で行われた法華懺法の美曲も彼によって作曲されたと伝えている(『声明源流記』)。彼の音曲的念仏の基調をなしたのは、叡山常行堂の引声念仏・不断念仏・大念仏(『山門堂舎記』)であるが、それが普及した例として『拾遺往生伝』清海伝によれば、超昇寺大念仏があったことが知られる。また「寿永・元暦の頃、源平の乱れによりて、命を都鄙に失う者其の数を知らず。ここに俊乗房、無縁の慈悲を垂れて、彼の後世の苦しみを救わん為に…道俗・貴賤を勧めて、七日の大念仏を修しけるに」(『四十八巻伝』三〇、聖典六・四七七~八)とあり、これは同音の合唱念仏であり、また法然の大原談義の終末の状況を「香炉を取り、高声念仏を始め、行道し給うに、大衆皆同音に念仏を修すること、三日三夜…信を起こし、縁を結ぶ人多かりき」(同一四、聖典六・一五六)と伝えているが、大原勝林院の同音念仏が良忍の融通念仏の系譜に連なり、その曲調が大念仏に継承されたのである。『融通念仏縁起』によれば、「清凉寺の融通大念仏は道御、上宮太子の御夢告により、良忍上人の遺風を伝えて、弘安二年に始行し給いしより以来、とし久しく退転なし、毎年三月六日より同月十五日にいたるまで、洛中辺土の道俗男女雲のごとくのぞみ星のごとくにつらなりて群衆す」とあり、弘安二年(一二七九)に道御(円覚十万)が嵯峨清凉寺で融通大念仏会を始めたことを伝えている。こうした良忍の融通念仏が一三世紀末には融通大念仏、また単に大念仏とよばれ、道俗男女大衆が集まり、同音による念仏の合掌であったことが知られる。現在伝承されている大念仏は、法具として太鼓・鉦・双盤・笛・鰐口などが単数または複数で使用されるが、それにも静と動があり、嵯峨大念仏は肩衣を掛けて列座し、遠州大念仏は菅笠・手甲・脚絆で跳躍する所作が伴う。こうした大念仏は、一部は大衆化するにつれ俗化のみちをたどり、宗教性を稀薄にし、娯楽性を増しつつ地方の諸民俗芸能と交流し合いながら、雑芸を交えた念仏踊り、念仏狂言など念仏芸能として形づくられていったのである。
【参考】佛教大学民間念仏研究会編『民間念仏信仰の研究』(隆文館、一九六六)
【参照項目】➡壬生大念仏、嵯峨大念仏、念仏狂言、融通念仏、遠州大念仏、念仏踊り
【執筆者:成田俊治】