浄土一乗
提供: 新纂浄土宗大辞典
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じょうどいちじょう/浄土一乗
浄土の教えは仏教の真実唯一の教えである(究竟大乗浄土門)という意。浄土の教えには二乗・三乗の差異がなく、本願一乗であるということ。弘願一乗、悲願一乗ともいう。『無量寿経』下に「一乗を究竟して、彼岸に至る」(聖典一・二五八/浄全一・二三)といい、善導『観経疏』玄義分の「十四行偈」に「我れ、菩薩蔵、頓教一乗海に依って、偈を説いて、三宝に帰して、仏心と相応せん」(聖典二・一六〇/浄全二・一)というのもこの意味である。善導が阿弥陀仏および西方浄土を「法性の常楽」「西方の寂静無為楽」「極楽無為涅槃界」「弥陀妙果を号して無上涅槃」というのも同じ意味である。聖光は『西宗要』二に「浄土宗の一乗とは、一向専修の南無阿弥陀仏の一乗なり、此の行の外に更に余行無し」(浄全一〇・一五五下)といい、また「此の心性真如を具足する人、念仏して極楽に往生して終に此の理を顕わさんと云う一乗なり、されば本願往生の仏意の一乗なり」(浄全一〇・一五六上)という。良忠の『伝通記』玄義分記二によると「一乗と言うは三乗の異なり無きを名づけて一乗と為す…是の故に願じて言く、我が国土をして皆是れ大乗一味等味にして、根敗の種子、畢竟じて生ぜず、女人残欠の名字も亦断ぜしめん。是の故に大乗善根界等無譏嫌名と言う」(浄全二・一〇七上)とし、「之に準ずるに所詮の国土既に一乗なれば、能詮の教門も亦是れ一乗なり」(同)という。同じく良忠の『東宗要』一に「三乗の異無きが故に一乗と云う」(浄全一一・六上)といい、また「彼の依正は皆な真実智慧無為法身を以て体と為し、更に余の有漏有為二乗之法を雑ゆることなし。故に一乗という」(浄全一一・六下)とある。聖冏の『糅鈔』一八には「穢土の一乗すら猶浄土の一乗の由漸と為すに足らず、況や浄土の一乗何ぞ穢土の一乗の方便と為すことを得んや、彼は錬金の純金なり、是は変金の純金なり。純金は似ると雖も、錬変列て異なるなり。夫れ自力の一乗は調機の爐炭に向かいて智火の焰煙を揚げ、方便の鉱垢を却けて一実の純金を融す、故に難行道なり。今他力の一乗は、弘願の逸風調機の格を用いず、即相不退は智火の煙を見ず」(浄全三・四一七上)と述べ、浄土の一乗とは、変金不可思議の一乗であるとし、聖冏の『二蔵義見聞』六には「今此の教は浄土の一乗なり、超勝の一乗なり、特妙の一乗なり、単信の一乗なり、自然の一乗なり、他力の一乗なり、龍樹菩薩は之を純金の一乗と謂う。既に是れ心地修行の及ぶこと能わざる浄土不共の一乗なり」(浄全一二・四六五)とも述べている。つまり、法蔵菩薩が兆載永劫にわたる過去の修行によって得た仏身と、その国土の荘厳(浄土の依正二報)は一仏乗の妙果であって、これを無上(涅槃)の一乗ともいい、本願に誓われた念仏によって浄土へ往生する法門を、ほかの大乗諸教でいう一乗と区別している。
【参照項目】➡究竟大乗
【執筆者:金子寛哉】