願
提供: 新纂浄土宗大辞典
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がん/願
目的を達成するための希求をいう。Ⓢpraṇidhāna。誓願、本願、弘願、発願、願楽、悲願などとも訳す。特に正覚を目指す場合や迷妄の衆生の救済を目指す場合、そのために仏国土を構えようとする希求心、決意をいう。初期仏教当時は、仏道を志す者は阿羅漢となることを目的としたが、仏果を目指す大乗教徒は、一切衆生を救済しようとする願い(度衆生心)と、菩提を求めようとする願い(願作仏心)という誓願思想を持つようになった。それらの願いを総括したのが四弘誓願といわれ、大乗の菩薩道は、この願を基本的条件とし、これを総願という。しかし、願だけでは仏道の完成は期せられない。願は実践(修行)との相即においてはじめて完成する。『大智度論』七に「仏、国を荘厳する事、大なり。独り行の功徳にては成ずること能わず。故にすべからく願力を要す。譬えば牛の力はよく車を挽くといえども、かならずすべからく御者をもちいて、よく至る所あるべし」(正蔵二五・一〇八中)というのはそれである。大乗仏教では、行は六波羅蜜行、とくに般若波羅蜜の修学を中心とし、その般若(智慧)を根底として、空・無我に裏づけられ、衆生救済の願が成立する。のちに瑜伽唯識学派では六波羅蜜の上に、方便・願・力・智の四波羅蜜が加えられて十波羅蜜思想が体系化したのも同趣旨である。
また、大乗菩薩道は衆生救済を目的とするが、衆生を救済するためには、そのための依所・場所が必要である。そこに浄仏国土思想が展開し、仏を志す者は、各自、仏国土を構えなくてはならない。その仏国土建立の願いはそれぞれの意楽によって不同であるから、その菩薩の個別の願を、総願に対して別願という。大乗仏教において、普賢菩薩の十願、阿閦仏の二十願、阿弥陀仏の二十四、三十六、四十八願、文殊菩薩の十八願、師子香菩薩の四十願、薬師仏の十二願および四十四願、千手観音の六願または十願などがそれである。菩薩はこのように願を立てて兆載永劫の修行に入り、浄土を建立し仏果を成就していく。『無量寿経』に「我れ超世の願を建つ。必ず無上道に到らん。この願満足せずんば、誓って正覚を成ぜじ。我れ無量劫において、大施主となりて、普く諸もろの貧苦を済わずんば、誓って正覚を成ぜじ」(聖典一・二三三/浄全一・一一)というのはそのためである。阿弥陀仏の浄土も願行具足による浄土である。善導はまさにその故に阿弥陀仏の名号が願行具足であることを『観経疏』玄義分に「南無と言うは、すなわちこれ帰命、またこれ発願回向の義。阿弥陀仏と言うは、すなわちこれその行なり。この義を以ての故、必ず往生を得」(聖典二・一八二/浄全二・一〇上~下)という。この願がなければ浄土教信仰はありえない。また願には種々の熟語があり、因位所発の意味から本願または因願、要誓希求の意味から誓願、広大深重の願望の意味から大願・弘願・重願、慈悲の願の意味から悲願という。また、その力を願力・仏願力・本願力などといい、これを発すのを発願、その要旨を願文、その願の深広なるを海に譬えて願海・誓願海、これに乗って苦海を渡るという意味から願船などともいう。
【資料】『選択集』三
【参考】藤田宏達『原始浄土思想の研究』(岩波書店、一九七〇)、同『浄土三部経の研究』(同、二〇〇七)
【執筆者:金子寛哉】