回向
提供: 新纂浄土宗大辞典
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えこう/回向
方向を転じて向かうこと。自己が行った善をめぐらしひるがえして、他のために差し向けること。Ⓢpariṇāmaの訳で、自己の修めた善行・功徳をめぐらし転じて自らの悟りや一切衆生の悟りのために趣き向けること。大乗菩薩道の展開とともに、善行の結果が覚り(正覚・菩提)へと向けられるためには、その善行が衆生に施し与えられなければならないということが強調されてくる。『六十華厳』十回向品に「此の菩薩摩訶薩は一切の諸善根を修習の時、彼の善根を以て是くの如く回向し、此の善根功徳の力をして一切処に至らしむ」(正蔵九・四九五上~中)と言い、羅什訳『維摩経』仏国品では「回向心は是れ菩薩の浄土。菩薩成仏の時、一切具足の功徳の国土を得る」(正蔵一四・五三八中)と説く。 『無量寿経』下には「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜して、乃至一念、至心に回向して、かの国に生ぜんと願ずれば、すなわち往生を得て、不退転に住す」(聖典一・二四九/浄全一・一九)として、回向は浄土往生のためであると説かれる。また、『観経』では四箇所にこの語が用いられているが、上品中生と上品下生と中品中生の三箇所では「この功徳をもって、回向して極楽国に生ぜんと願求す」(聖典一・三〇七、三〇八、三〇九/浄全一・四七、四八)と説示され、中品上生では「この善根をもって回向して西方極楽世界に生ぜんと願求す」(同三〇八/同四八)とあって、功徳・善根を回向して往生浄土を願い求めるということが説かれている。三経通申論とも言われる世親『往生論』では五念門のなかの第五番目に回向をあげる。「云何が回向する、一切苦悩の衆生を捨てず、心に常に作願し回向するを首と為して、大悲心を成就することを得るが故に」(聖典一・三六二/浄全一・一九三)と言い、その成就を「菩薩の巧方便回向成就」であるとする。世親の説く回向論を曇鸞は、その注訳書『往生論註』で「回向に二種の相有り。一は往相、二は還相。往相とは己の功徳を以て一切の衆生に回施し、共に彼の阿弥陀如来の安楽国土に往生せんと作願するなり。還相とは彼の土に生じ已って、奢摩他、毘婆舎那、方便力を成就して、生死の稠林に回入して、一切の衆生を教化して共に仏道に向かう」(浄全一・二三九下~四〇上)と往相と還相の二種回向について言及している。
善導は『観経疏』散善義の回向発願心釈で「過去および今生の身口意業に修する所の世生世の善根と、および他の一切の凡聖の身口意業に修する所の世出世の善根とを随喜せると、この自他の所修の善根を以て、ことごとく皆真実深信の心中に、回向してかの国に生ぜんと願ず」(聖典二・二九五/浄全二・五八下)と言い、「かの国に生ぜん」ための回向である。一方で善導は、回向発願心釈の終の部分で「回向と言うは、かの国に生じ已って、還って大悲を起し、生死に回入して衆生を教化するを、また回向と名づく」(同・二九九~三〇〇/同・六〇下~一上)と言い、曇鸞のように往相と還相という明確な区分に立つことなく、善導は「浄土往生のための回向」に力点を置いていることがわかる。
法然は『選択集』二の五番相対論の不回向回向対の説示で「正助二行を修する者は、たとい別に回向を用いざれども、自然に往生の業と成る。…回向とは、雑行を修する者は必ず回向を用うる時、往生の因と成る。もし回向を用いざる時は、往生の因と成らず」(聖典三・一〇九~一〇)と言って、正行と雑行について分別している。また、『御消息』において「まず我が身につきて、前の世及びこの世に身にも口にも意にも造りたらん功徳、みなことごとく極楽に回向して往生を願うなり。次には我が身の功徳のみならず異人のなしたらん功徳をも、仏菩薩の作らせ給いたらん功徳をも随喜すればみな我が功徳となるをもて、ことごとく極楽に回向して往生を願うなり」(聖典四・五四〇/昭法全五八三)と述べている。
【参考】梶山雄一『〈さとり〉と〈回向〉—大乗仏教の成立—』(人文書院、一九九七)、土屋光道「回向論の展開」(浄土教思想研究会編『浄土教—その伝統と創造—』山喜房仏書林、一九七二)
【執筆者:藤本淨彦】