知恩院
提供: 新纂浄土宗大辞典
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ちおんいん/知恩院
一
京都市東山区林下町。華頂山大谷寺知恩教院。浄土宗総本山。本尊は阿弥陀如来。本堂である御影堂には法然の木像を安置。法然浄土宗開創の地、入寂の霊跡。法然上人二十五霊場第二五番。承安五年(一一七五)法然は比叡山を下り、やがてこの東山吉水(現在の御影堂東)に住し念仏弘通の生活を営んだ。建永二年(一二〇七)門弟の責を負って四国配流となるが、建暦元年(一二一一)帰洛が許され、大谷の禅房(現在の勢至堂)に入り、翌二年正月ここで入寂。遺骸は住房の東崖上(現在の本廟)に埋葬、廟堂を建て毎月命日に知恩講を修していた。嘉禄三年(一二二七)比叡山の衆徒により廟堂は破却。遺骸は事前に嵯峨に移され粟生野で荼毘に付され無事であったが、廟堂の廃滅を歎いた勢観房源智は、文暦元年(一二三四)廟堂を修理して遺骨を安置し伽藍を整えて、法然を開山と仰いだ。知恩院の初出は『四十八巻伝』三七で、その後の寺史は詳かではない。永享三年(一四三一)火災にあうが、将軍足利義教の命により二〇世空禅の四八万人勧進がかない復興を遂げる。応仁元年(一四六七)大乱の兵火にかかるも、文明一六年(一四八四)足利義政によって再建される。このとき二二世珠琳は近江国伊香立(大津市)に新知恩院を建て什宝類を避難させている。この再建造営にあたって長享二年(一四八八)青蓮院尊応准后は珠琳を「当院中興之開山」と称して、敷地・山林などの土地を安堵している。永正一四年(一五一七)三たび焼失したが、二四世訓公の手腕によりすぐに再建され、このとき東福寺から阿弥陀堂が移転造営された。大永三年(一五二三)二五世存牛のとき知恩寺慶秀との間に本末争いが生じている。翌四年には後柏原天皇から「大永の御忌鳳詔」を賜り、永禄三年(一五六〇)二八世聡補のときには将軍足利義輝から知恩院を上座とする一宗本寺の「坐次公帖」が下付され、天正三年(一五七五)正親町天皇から毀破綸旨を賜り、末寺の香衣執奏権を独占することとなった。中興と称される二九世尊照の代になると、将軍徳川家康は慶長八年(一六〇三)知恩院を菩提所とし、寺領七〇三石余を寄進、生母伝通院殿菩提のために寺域拡張・諸堂舎造営等の工事を命じ、現在のような大伽藍の基礎ができた。同一二年には後陽成天皇第八皇子良輔親王を良純法親王と号して宮門跡として治定し、宮門跡制度を確立させ明治維新まで七代の門跡が継続して置かれた。元和元年(一六一五)に浄土宗法度が制定され、香衣執奏権の所管などますます総本山としての様相を整えるに至る。徳川秀忠も同五年に三門および経蔵を建立するなど家康の意を継承した。これらの伽藍の大半は寛永一〇年(一六三三)に焼失。三二世霊巌は再建を幕府に懇請し、家光はこれを承け御影堂・大小方丈・集会堂・大小庫裡を復興、延宝六年(一六七八)には大鐘楼の建立、宝永七年(一七一〇)には阿弥陀堂の移転等諸堂舎の整備が進められた。近世における末寺数は、元禄九年(一六九六)幕府の命によって寺社奉行へ提出した『浄土宗寺院由緒書』によれば、約三四〇〇箇寺で浄土宗全寺院の半数を超えることとなり総本山としての地位を確実に占めていたといえる。
明治維新を迎え寺領返還により経済的に窮乏を極めたが、七五世養鸕徹定は講社を結成、地方巡錫による教線拡張、寺債の発行など寺内興隆に心血を注ぐ。明治二〇年(一八八七)には七六世福田行誡が初代管長に就任し、同三三年には寺運を挽回している。昭和二二年(一九四七)には門末寺院を率いて浄土宗から離脱し、本派浄土宗(のちに浄土宗本派と改称)を創立したが、同三六年法然上人七五〇年遠忌を機に合併、翌年知恩院山内に浄土宗宗務庁が開設。同四六年には三門前に信徒会館である和順会館が竣工。平成二一年(二〇〇九)法然上人八〇〇年大遠忌事業として建て替えが開始され、同二三年二月に完成した。同二四年からは御影堂の大修理が本格的に始められた。現在も七万三〇〇〇坪の広大な境内に百余棟の諸堂宇が並ぶ。御影堂・三門を含む周辺の歴史的景観が国宝。勢至堂・経蔵・大方丈・小方丈・唐門はいずれも国重要文化財。そのほか、阿弥陀堂・集会堂・雪香殿・古経堂・廟所・権現堂・大鐘楼・納骨堂・泰平亭・黒門などが主な建造物。このうち御影堂と集会堂・大方丈をつなぐ長廊は鶯張りで有名。勢至堂には後奈良天皇宸翰の「知恩院」、三門の楣間には霊元天皇宸筆の「華頂山」の勅額が掲げられている。古文書類は、中世のものは数度の火災で多くが焼失しているが、青蓮院尊応御教書(長禄四年〔一四六〇〕二月二四日付)を最古に中世から近世初頭にかけて約一〇〇点残っている。近世の文書・古記録の所蔵数は厖大。元禄年間(一六八八—一七〇四)から始まる日鑑・書翰書留は九五〇冊にのぼる。宝物類としては、『四十八巻伝』および「早来迎」の名で有名な「阿弥陀二十五菩薩来迎図」が国宝。『上宮聖徳法王帝説』などの古写経類三点が国宝であるが、これらは養鸕徹定の蒐集品。ほかにも三五点の国重要文化財がある。
【参考】藪内彦瑞編『知恩院史』(知恩院、一九三七)、水野恭一郎・中井真孝編『京都浄土宗寺院文書』(同朋舎、一九八〇)【図版】巻末付録
【執筆者:中野正明】
二
藤堂恭俊編著。昭和四九年(一九七四)四月、教育新潮社刊。『日本のお寺シリーズ』八。香月乗光の著書として刊行の予定であったが執筆途中に逝去。あとを継いだ藤堂恭俊が開宗八〇〇年記念、副題「法然上人伝」のもと、知恩院の歴史と文化財、宗祖法然の伝記、さらに浄土宗の教えについて、一般読者向けに編集した。①知恩院の歴史(香月乗光)、②法然上人の生涯(平祐史)、③法然上人の教え(藤堂恭俊)、④「選択集」私講(髙橋弘次)、⑤知恩院の文化財(伊藤唯眞)からなる。四六判二二三頁。
【執筆者:今堀太逸】