像想観
提供: 新纂浄土宗大辞典
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ぞうそうかん/像想観
娑婆世界にある仏の形像を観ずることを通じて、三十二相八十随形好の仏の色身を観想する方法。『観経』所説の一六種の観想のうちの第八観にあたる。像想観には「諸仏如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想の中に入りたまう。この故に汝等、心に仏を想う時、この心すなわちこれ三十二相八十随形好なり。この心仏を作る、この心これ仏なり。諸仏正徧智海は、心想より生ず」(聖典一・二九八/浄全一・四三)という文がある。この文の解釈をめぐっては、浄土門と聖道門との間に大きな見解の相違がみられ、古来より種々に議論されている。同じ経文でありながら、聖道門の諸師は「己心の弥陀」「唯心の浄土」を説く際の経証として用い、浄土門の諸師は「有相の阿弥陀仏」「指方立相の極楽浄土」を説く教説として用いている。それ故に、善導『観経疏』における像想観の解釈は、浄土宗義上の重要な教説として注目されている。法然は『観経釈』(昭法全一〇二)において、①阿弥陀仏一仏の像を観ずる一仏像想②観音・勢至の二菩薩の像を観ずる二菩薩像想③無量の三尊の像を観ずる多身像想の三種の像想観が説かれていることを指摘している。また法然は、罪障の重い凡夫はすぐに真仏を観ずることができないために釈尊が哀れみを垂れてこの世の形像を心に作想させたという善導の説示に順じて、初心の修行者がすぐに真仏を観ずることはできないために釈尊が真身を観ずる前に形像を観じさせたと説明している。
【資料】善導『観経疏』(聖典二・二六七~七二/浄全二・四六下~八下)、良忠『伝通記』定善義記(浄全二・三四三上~五上)
【参考】福𠩤隆善「仏と衆生—『観経』の〈是心〉釈をめぐって—」(『浄土宗学研究』七、一九七二)、服部英淳「指方立相論と本願称名念仏の意義」(『浄土教思想論』山喜房仏書林、一九七四)
【参照項目】➡十六観、是心作仏是心是仏、法界身、指方立相、己心の弥陀・唯心の浄土
【執筆者:吉水岳彦】