「九品」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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くほん/九品
浄土への往生以前の行いの違いによる往生以後の階位。具体的には、『観経』における上品上生・上品中生・上品下生・中品上生・中品中生・中品下生・下品上生・下品中生・下品下生の九種の階位をいう。九品の往生人が、菩薩の修道階位のどの位置に該当するかについては異説がある。例えば、浄影寺慧遠『観経義疏』末(浄全五・一九〇上/正蔵三七・一八二上)では、上品を大乗人の中の種性已上とし、中品を小乗人の中の凡より聖に入るとし、下品を大乗人の中の外凡とする。智顗『観経疏』下(浄全五・二一五上~下/正蔵三七・一九三中~下)では、上品を習種から解行の菩薩とし、中品を外凡の十信已下とし、下品を今時の悠々の凡夫としている。吉蔵『観経義疏』(浄全五・三五〇上~一上/正蔵三七・二四五上~中)では、上品を大乗の善とし、中品を小乗の善とし、下品を悪をなし善のない、過去に発心したものとする。これらはいずれも九品の人を高位の位置と見る。それに対し、善導は『観経疏』玄義分(聖典二・一七六~七/浄全二・八上~下)において、諸師とは意見を異にして九品すべてが凡夫であるとしている。すなわち、上品を大乗に出遇った凡夫、中品を小乗に出遇った凡夫、下品を悪に出遇った凡夫としている。九品の各位に本質的な違いがあるか否かについては両様のとらえ方がある。法然は『十二問答』(聖典四・四三四/昭法全六三三~四)およびその異本である『醍醐本』所収『禅勝房に示されける御詞』其四(昭法全六九七)において、九品は「釈尊ノ巧言」(釈尊の巧みな手だてのことば)であり、善人も悪人も同じところに往生するといえば悪業をなす者が慢心をおこすであろうから、方便として階位の違いを述べたのだという。しかし『観経釈』(昭法全一一五)では九品の各位の違いを、法の浅深、行の多少、時節の長短の三によって解釈しており、九品に違いを認めている。
西山派においては、同派の特殊用語である正因・正行でいえば、『観経散善義他筆鈔』下(西全五・三七〇上~下)で、正因の立場では九品皆一であるが、正行の立場では九品おのおの別の位であるという。親鸞は『教行信証』五(真聖全二・一四一)において、報土の中に真土と化土とがあり、その化土に千差があることを説いている。念仏の数によって階位が決まることについて、善導は『観念法門』(浄全四・二二四上/正蔵四七・二三中)で、三万・六万・十万の念仏をする者は、上品上生の人であると述べ、それを承けて法然は、『三部経大意』(昭法全四五)で、三万以上の念仏をする人は、上品往生であるとしている。しかしそのすぐ後に、「数返によりても上品に生ずべし」と展開している。九品の解釈における分類として、善導『観経疏』散善義(聖典二・二八六~三二〇/浄全二・五五上~七〇上)では、『観経』九品の階位での文を一一に分けて解釈するという十一門の義を立て、九品おのおので一一であるから合計一〇〇番の義であるとしている。法然は『観経釈』(昭法全一一六~九)において、①修因、②往生、③往生已後の得益の三に分け、解釈を施している。『無量寿経』に説く上輩・中輩・下輩の三輩と九品との関係については、中国・朝鮮の人師によれば、等同であるとする解釈と、そうではないとする解釈がある。法然は『選択集』四(聖典三・一二八~九/昭法全三二四)で、三輩と九品との関係を「開合の異」とし、両者を同じ内容と見ている。そして、『観経』の九品の一部にしか念仏についての記述はないが、実際には、九品全部に通じるのだと解釈している。法然のその他の九品についての解釈を見るに、三心に九品の差別があるともいう。『逆修説法』(昭法全二四一)では、三心の浅深によって、九品の階位があると述べており、同様の内容が、『往生大要抄』(聖典四・三〇五~七/昭法全五二~三)にも見られる。また、『阿弥陀経釈』(昭法全一三六、一四九~一五〇)では、『阿弥陀経』の阿弥陀仏の来迎の文について、九品のうちの上品上生の来迎であると指摘している。また、『阿弥陀経釈』(昭法全一四一)では、往生の大願に三品九品の違いがあり、それは「御志の浅深」によるという。
【執筆者:岸一英】